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 V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 13. 「理性」の時代へ(1)
 いよいよ、人間の中に眠る忌まわしき「習性」と決着をつける時が来た。人は「野生」を葬り去って、「理性」の時代を到来させなくてはならない。人をいつまでも「力」の獲得に邁進させていてはいけない、「力」よりも「ルール」を尊重する人を少しでもたくさん作るために、私は70億の人間すべてを説得しようと思う。
  
 今から2千数百年前のギリシャで、賢者ソクラテスはアテナイ市民に向かって、こう述べた。

 「好き友よ、人間でありながら、最も偉大にしてかつその智慧と偉力との故にその名高き星の民でありながら、出来得る限り多量の蓄財や、また名聞や栄誉のことのみを念じて、かえって、智見や真理やまた自分の霊魂を出来得る限り善くすることなどについては、少しも気にもかけず、心を用いもせぬことを、君は恥辱とは思わないのか。」

 
 ソクラテスが、都市国家アテナイの街路で、「知識」を売り物にするソフィスト相手に「批判」を繰り返していたこの時代と前後して、私たちの「理性」は、これから先の人間の未来のためにと、のちのち人が依るべき大樹とするための小さな種を二つ植えた。
 一つ目の種子を「哲学」と言う。古代ギリシャに端を発する「哲学」は、アナクシマンドロス、デモクリトス、ヘラクレイトス、ソクラテス、プラトーン、アリストテレスなどの多くの哲学者によって継承されながら、「哲学」が扱うべきこと「哲学」が探求すべきことについては、あらかた理解されたようである。これ以降、時代と共に世界には多くの「哲学者」と称する人が出現するが、どの「哲学者」たちもその探求の対象とするのは、「自然」「世界」「宇宙」と呼ばれる私たち人間が存在する最も大きな「全体」に関するものか、もしくは私たち自身つまり「人間」に関するものか、あるいは「全体」である「世界」と「部分」である「人間」との「関係性」に関するものか、のいずれかである。
 哲学者は、これらの探求の際の道具に「言葉」を用いた。彼らは、世界の中で名付けられていないものがあれば名前を付けたし、実際には存在しないものにさえも名前を付けた。また、表現したいものにふさわしい言葉がなければ言葉も作って、何とか「世界」について理解し、それを表現しようともした。それゆえ彼らは、「形而上学」と呼ばれる、この「現実の世界」の「上」か「根底」かあるいは「中心」かにある、「概念だけの世界」「全く抽象的な世界」を作り上げた。彼らの目に映る現実の「世界」には、「形而上」がなければならなかったのである。現実の世界が「万物流転」であっても、「変わらないもの」がなければならないことを、哲学者の多くが要請したのだが、その「変わらないもの」の世界を「形而上」と呼んだのである。
 彼らはまた、言葉を作り言葉を巧みに操りはするが、言葉の「ルール」には厳格な人たちであった。言葉の「ルール」は「論理学」と呼ばれ、全ての哲学者が従うべきルールでもある。それが、言葉で説明しうることであるなら、それは全て「論理」に従って説明されなければならず、「論理」の行き詰まりは「無知」を、「論理」の不整合は「誤り」を表すという、ソクラテス以来の伝統は、今の哲学者にも脈々と受け継がれているものである。

 一方、もうひとつの種子は「数学」と言う。ピュタゴラス、エウクレイデス、アルキメデス、などに端を発するもので、「言葉」で「世界」を理解しようとした哲学者に対して、「数学者」は、本質的に「数」で「世界」を作り上げようとした人たちである。本来の「数学者」は「数学」でものを考えて、自分でそれを「カタチ」にしてきた人なのである。「数学」は元々、世界を「数」というものに「抽象化」して、人間の脳裏だけにある「数学の世界」の中に反映させたものである。だから、「数学の世界」には「数」という「概念」だけのものと、後はその「数」をどのように扱うかについての「ルール」だけがある。「数」も「ルール」も共に「概念」だけのものであり、現実世界には(おそらくは)未来永劫直接姿を現さないものである。人間の頭の中だけで、人間の「思考」の中だけで「数学」は息づいているから、それゆえ「数学のルール」は、全て人が作ったものだ。現実の世界は、「1+1=2」という簡単な数式のルールでさえ要求していないし、実際にはこの数式が表す「現象」というものもまたこの世界の中にはたったの一つもないのである。だが、数学には思いもよらぬ「特技」がある。それは、数学が最も正確にモノの「カタチ」を表現できることである。「空間」と「時間」の中に位置するモノのカタチを正確に表現できるのは「数学」だけなのだ。「幾何学」は現実の世界にあるモノのカタチを正確に人間の脳裏の中にある「数学」の世界に写し取ることもできれば、その逆に人間の脳裏にある「カタチ」を正確に現実の世界に構築することもできるのである。人間が「自由」に構築した「数学」とは言え、このように「現実」の世界との接点はあって、確かに「数学」は人が自由に作ったものではあるが、古代ギリシャの時代から決して「無意味なもの」ではなかったのである。人が自由に「数学」を作ったとは言っても、決してデタラメに作ったのではない。「数学」には他のどの学問よりも厳密な「ルールの整合性」と呼ばれる「ルールどうしは絶対に矛盾してはならない」という「ルール」がある。「数学」のルールは全て、絶対的な正しさを持つ「演繹」という方法で構築されているが、それゆえ「論理学」同様の伝統もまた存在するのである。つまり、「計算」の行き詰まりは「無知」を、「計算結果」の不一致は「誤り」を表すという伝統である。



 紀元前の昔に撒かれた二つの種子「哲学」と「数学」は、共に人間の「理性」によって撒かれた種子である。「哲学」は「世界」を理解するために撒かれた種子であり、「数学」は世界を作るために撒かれた種子である。それから、およそ3000年の時を経た現代、この二つの種子には、大きな違いができている。「哲学」は廃れて、もはや見る影もなくなった。現実的な問題の解決をほとんど行えなかった哲学者は、無意味とも言える言葉の遊びの中に埋没した。哲学が私たちの世界に有効な知識をもたらさなかったわけでは決してないのだが、哲学者が語る難解な言葉の数々を理解しうる知性をほとんどの人間は持ち合わせてはいなかったし、哲学者の「忠告」はソクラテス同様多くの人に無視され続けてきたのである。
 一方で「数学」は、今の私たちの世界のほとんどすべてを作り上げてきた。今私の目の前にある「化け物」もまた「数学」が作り上げたものである。「パソコン」。これが、紀元前以来洗練され続けてきた「数学」が作り上げた「化け物」である。パソコンだけではなく、みなさんの周りにある「機械」や「電化製品」は全て「数学」が作り上げたモノである。建築物も道路や橋梁などの大きな構造物もまた「数学」が作り上げたモノだ。「数学」なくして作られたものなど、今の世界にはほとんどない。それゆえモノ作りの専門家である技術者、建築家の多くは「数学」に長けている「理科系」の出身者である。
 私は、生まれてから50年になり、その間ずっと「機械」の進化を見続けてきたわけだが、「機械」の進化を振り返るとそれはめざましいを超えて、めまぐるしくさえある。黒くて重くて、我が家の宝として絹布が掛けられていた電話機は、今や手のひらの中にコンピューターと共に収まるものとなった。大きなブラウン管を用いた重くて大きなテレビは消え去って、今は薄くて軽くて持ち運びのできるものとなり、それが映し出す画像はとても美しくて精彩なものとなった。ゴロゴロガタガタと大きな音を立てて回っていた二層式の洗濯機は、大きなドラム式の「全自動洗濯機」に変わり、夏場だけに活躍していたクーラーはエアコンと呼ばれるオールシーズンタイプのものに姿を変えた。もくもくと黒煙を吐きながら走る車は街路からは姿を消して、「エンスト」だの「オーバーヒート」だのというトラブルで立ち往生する車も見なくなった。今の車はみんな、GPSを備えたナビゲーション・システムを持っていて、コンピューターで制御された駆動システムや燃料システムを持つものばかりなのだが、外見上のスマートさもさることながら、「性能」とよばれる燃費や操作性や安全性も格段に向上した。駅の改札で、一日中鳴り続けていた改札鋏の音はどこからも聞こえなくなり、自動改札機に定期を翳すだけで通過できるようになった。どの工場でも、機械化が進んで、巨大な工場なのに働いている人が数人、数十人というのも珍しくはなくなった。このように、家電製品、交通機関、工業用機械やロボットを始め、全ての「機械」はずっとずっと今の今でも「進化」し続けていて、一体どこの誰がこれほどの「技術」をお持ちであって、一体いつまで、新しい技術を投入した「機械」を作り続けることができるのかと考えると、ちょっと恐ろしい気分にさえなりそうだ。とは言え、まだまだ、その進化は止まる気配がなさそうだから、「機械」は一体どこまで進化するのか? と誰に訪ねても、きっと誰もお分かりにならないであろうと思う。「自然科学」における新しい発見がなくなり、私たちの「世界」に関する知識そのものが一つも増加しなくなるまでは、新しい「機械」は次々に生まれるであろうし、また生まれたものは洗練されるであろうから、「機械」の進化は止まることはないのかも知れない。私たち人間が「世界」や「宇宙」についてすべてを知り尽くす、その日までは。

 「数学」はみなさんがご存知ないだけで、私たちの作ったもの「ほとんど全て」を作ってきた「理性」の「大樹」である。だが、「数学」はあくまで、私たち人間が作った「ルール」の体系であって、私たちが作ったモノならともかく、「世界」の理解には通用しないと思われてきた。「世界」は、あくまで「哲学」によって理解されるか、「宗教」や「神秘主義」によってのみ理解されるものであると思われてきたのである。なぜなら、いくら「数学」によっても「人」をはじめとした「生き物」の「カタチ」は複雑すぎて捉えることができない。その行動や行為も同様である。また「数学」は「形而上学」を持ってはいない。「形而上学」は「神」を含む世界の学問である。だから、「神」が人の作った「数学」ごときによって理解されるはずはないとずっと思われてきたのである。
 だが、そのことを一変させる出来事が起こった。世界中に人間の意図するモノは作れても、世界を理解することができないはずの「数学」によって世界の理解が格段に進む事態が起こったのである。「物理学」が、もともと「概念」だけのものを「概念量」として、「数量的」に取り扱って世界を知ろうとしたら、これが思いのほかうまくいったのである。そして、世界を理解するために「数学」を用いたこと、それが、「科学」の始まりであり、私たちが「哲学」や「神秘主義」など、従来の方法以外で「世界」の理解を深めるきっかけとなったのである。私たちの「理性」だけで作り上げた「ルールの体系」が、「物質」と「星の世界」の理解を格段に深めることになったのである。

 私たちの「理性」の撒いた種子である「数学」は、「星の世界」を理解した。モノの「カタチ」は「数」と「ルール」で表現できることを「数学」(主に「幾何学」)はずっと以前から掴んでいたから、それを利用して人間はモノを作ってきた。人の頭の中にあるモノを現実の世界に複数構築することに「数学」が用いられてきたのは、こういう理由があったからだが、これと寸分違わぬ同じ方法を「宇宙」もまた採用していたというわけである。それも137億年前から、全ての時空において。
 人の「理性」が作り上げた「数学」が、「宇宙」という「全体」を理解するのに最も有効な手段であること、たかが「ルールの無矛盾性」というメタ・ルール一つを要請した人間の、人間による、人間のための「ルールの体系」が「宇宙」を構築した「ルール」と同じものであったこと、そのことが、いったいどれほど「驚異的」なことであるか、「奇跡的」なことであるか、「神秘的」なことであるか、そのことを誰も私ほどには感じてくれないのである。


 「数学」は、「物理学」によって、もはや「人間」だけの「絵空事」ではなくなった。「数学」は、「世界」を理解する最も優れた道具であって、多くの物理学者によって、この「宇宙」共通の言語は「数学」であると言わしめるほどである。「数学」がこれほどまでに、大きな大樹となったのに対して、もうひとつの種子であった「哲学」はどうなったのであろうか? 「哲学」には克服できない壁があって、その壁を乗り越えることができなかったために衰退したのだと、私は考える。その壁こそ「神」であり「宗教」である。元々「哲学」は、「理性」の植えた種子であり、「論理学」という言葉の無矛盾なルールの体系によって語られるべきものである。だから、根本的に「不条理」を抱えた「神」と「宗教」は、「哲学者」が扱うべきものではなかったのだ。だが、哲学者の多くは「形而上学」の必要性を感じており、「形而上」の世界には「神」がいるべきであるとも考えていた。しかし、哲学者の「理性」が求める「神」は、従来の「神」、「宗教」によって語られる「神」とは異なるものであった。このどうしようもない「隔絶」の中で、多くの哲学者は困惑し、とにもかくにも辻褄合わせにやっきになった。ほとんど全ての哲学者において「神」と「理性」の葛藤の痕跡が見て取れるのもこのためだ。
 そしてあらかたの哲学者は、この壁を克服できずに終わった。自らの「理性」よりも、「不条理」ではあるが伝統的な「宗教的知識」を尊重したのである。

 数学は、元々「形而上学」を持ってはいなかった。人の「理性」によってのみ構築された「数学」とそれを操る数学者が、「形而上学」について語ることはほとんどなかったし、彼らは、自分の頭の中だけで「自由」な遊びを楽しんでいただけだったのだ。多分それは今の数学者にも十分にあてはまることであって、「形而上学」と呼ばれる重要な世界との関わりを感じて、「数学」に取り組んでいる数学者など、どこにもいないと思われる。でも私は、元々この宇宙にある「理性」と私たち人間の持つ「理性」が同じものであることを、ひしひしと感じているのである。だから、数学者が「数学」に求める、馬鹿げたほどに単純なことこそ、この宇宙にある理性が、この宇宙を構築した理性が求めるものであると確信している。
 「ルールは、『法則』と呼ばれるうるにふさわしいものでなくてはならない。」
 「ルール同士は、決して矛盾があってはならない。」
 「宇宙の理性」、私たちにも備わっている同じ「理性」が、「理性的」であるがゆえに容易く「ルール」の構築を行える私たち人間に対して、そして私たちが作り上げる全てのルールに対して、絶対的に突きつける要求は、たったの二つだけなのである。
 
この要請さえ満たしていれば、私たちは、この宇宙にふさわしいものであるのだ。


 
私は自分の「理性」を大いに賞賛する。私に備わった「理性」が、この「宇宙」を構築してきたものと同じものであることを大いに賞賛する。そして、感動し、困惑し、喜悦し、そして心の底からこみ上げる複雑な思いと共に涙ぐむ。とにもかくにも、私には、この宇宙を構築した「理性」と同じものが備わっている。それは信じるに十分なものである。私の行為の指針とするには十分なものである。「神」がこの「宇宙」を作ったと言うなら、「神」は私の中に住まいしておられる。私の中ではそれは「理性」と呼ばれるものであり、私の外にいるはずの「神」は、実は私の中にいるのである。

 私は、「理性」を信じて、私の内なる「神」を信じて生きてゆこうと決心した。私の「神」は「無矛盾なルールの体系」がお好みであるから、私自身の行為のルールも「無矛盾なルールの体系」でなくてはならない。私は、私の「理性」という物差しを私自身の行為のルールにあてて、吟味した。そのことは「神」に私の行為のルールが妥当なものであるかを、吟味してもらうことと同じことである。でも、結果は惨憺たるものであった。私の「理性」つまり「神」は私の行為のルールのほとんどを否定したのである。カント先生も、どうやら私と同じ経験をなさったらしくて、過去を思い出すたびに自分の行為のルールの「拙さ」に落胆されていたようだ。私も同様に、それまで生きてきた人生のほとんどを、「誤ったルール」に従って生きてきたことを思うと、とてもじゃないが今を生きていられないほどの恥辱にまみれた。毎日毎日反省し、悔いて涙し、途方にくれる日々が続いた。でも、一つ一つ私は「行為のルール」を変えていき、変わりそうにないほど「習慣」づけられているルールには自ら「訓練」を施した。だから、私は私自身にいつもいつも「言い聞かせて」生きてきた。「ルールを尊重しなくてはならない。」「いつもいつも妥当なルールでモノや人と接しなくてはならない」「人でもモノでも「妥当なルール」を見つけて、それを自ら進んで守らなくてはならない」「人でもモノでも、きちんと「配慮」しなくてはならない」「人を便利に扱ってはならない」「人でもモノでも優劣を付けてはならない」」「人でもモノでも傷つけてはならない」「自分の才能は「ギフト」と呼ばれて、それは「神」の贈り物だから、自分のために使ってはならない」「より良き世界を作らねばならない、そしてそのために何より先に自分自身がより良き人間にならねばならない」「世界にある何ものをも粗末に扱ってはならない」「世界にあるもの全てがずっと共にあるようにルールを守らねばならない」などなど、ずっとずっと言い聞かせて生きてきたのである。モーゼは「神」から自らが進んで守らねばならない自らの内にあるルールとして「十戒」を授かった。だが、「神」がモーゼの外にいるのであれば、それは「戒」ではなく「律」である。自分以外のものから授けられたルールであるならば、それは全部「律」である。「律」は「罰則規定」のあるルールである。だが、私のように「理性」でもって「神」を見つめれば、自分の外にいる「神」は「理神」となり、「汎神」となる。「汎神」として我が身のうちに「神」のいることを自覚すれば、「神」の授けたルールは全て「戒」であり、自ら進んで守るべきルールであり、それは「罰則規定」のないルールである。だから、私は、「神」も「仏」も恐れてはいないのである。恐れるべきは「我が身」がそれと知ってルールの逸脱を行うことであり、「神罰」や「仏罰」を恐れているわけではないのだ。「戒」には、罰則規定そのものがないのであるから。

 人間の「理性」は偉大である。この宇宙を「法治フィールド」として構築し、その中にあるルールのすべてを構築し続けて、ずっとそれを維持してきたその「理性」そのものなのだから、偉大でないわけがない。「物理法則」は私たちと同じ「理性」が作ったものである。「生物法則」も私たちと同じ理性が作ったものである。そして、私たちの理性は、この宇宙のどこでどんなルールを作るにせよ、ルールそのものに要請することがある。それは「ルールが法則と呼ばれるにふさわしいものであること」「ルールがどうしが無矛盾であること」を私たちの理性は要請するのである。だからこそ、自然が作ったルールは全て、この要請に応えたものである。科学者によって知るところとなった、自然のルールはみな「法則性」を備えているし、数多あるルールはみな「無矛盾な体系」を構築しているのである。
 
 その偉大な「理性」は、この星にいる全ての人間に備わっているはずである。誰にも彼にもこの偉大な「理性」が備わっているというのに、古代ギリシャの時代から、少なく見積もっても30世代を経ていると思われる現代に生きるほとんど全ての人間が、アテナイの市民と同じまんまで、何にも変わっていないのである。私たち人間は、誰ひとりとして賢者ソクラテスの忠告に一度も耳を傾けることなく過ごしてきたというわけである。今の人間も、智見も真理も自分の霊魂も出来うる限りよくすることなど少しも考えることなく、多量の蓄財と名聞や栄誉のみを求めて生きているのである。そのせいかどうかはわからないが、ギリシャの時代においても繰り返された「争い」と「殺戮」と「残虐」は、それ以後もずっと繰り返されてきた。人として、どの時代、どの場所に生まれようとも、これらの、人に起因する禍いから逃れる術はなく、一生を平和に誰とも争わずに過ごせたとしたら、それほどの「奇跡」は他にはないと言えるほどである。例え、自分が平和であっても、周りの誰かや世界の誰かが「争い」と「殺戮」と「残虐」を経験している。私たちは、それらには目をつぶり、見て見ぬふりをしながら、自分の周りだけを「平和」だと言って生きているだけなのである。(次項に続く)
 
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