V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 16. 「理性」の時代へ(2)
  「力」の獲得に明け暮れる日々を送る人間、「ルール」など全く尊重しないか、「自分に有利なルール」だけ尊重する人間。「理性」の時代の幕開けにはほど遠いのが、今の人間の現状である。それゆえ私たちは、「アテナイの市民」と全く変わりはない。そして、私たち人間は、克服すべき大きな問題をたったの一つも克服できないまま、数千年を生きてきたのである。その問題とは、絶えまない「争い」、「勝者」と「敗者」の隔絶、そして、この星に住む全ての生き物の中で私たち人間だけが持つ「残虐さ」や「残酷さ」、「狡猾さ」だけが目立つ知性と「やさしさ」のない知性、などである。どれをとっても、とても人が「理性」を持つ生き物とは思えない、まさに「恥辱」だらけの人間世界である。
 おかしなことだ。人間の作った「機械」にせよ「建造物」にせよ、みんな機能的で美しく、どれをとっても素晴らしいものばかりだ。私の目の前にあるソニーのパソコンも、実に洗練されたデザインを持っていて、そして想像以上の素晴らしい機能を発揮してくれている。今から、20年以上も前に買ったマッキントッシュでの「フリーズ」の日々を考えると、夢のようでもある。本当に、人は素晴らしいモノを作ってきたし、今でも作り続けている。どれもこれも、どんどん洗練されてゆくから、新製品はいつも魅力的なモノばかりなのだ。だが、人が作るモノはこれほど素晴らしいのに、ヒトそのものが全く進化しないのは、どういうわけであろう? 何が原因で、人だけが、正確には人の行為だけが、なぜ全く変わらないのだろうか?

 私はこう考える。人の持つ「理性」は偉大である。この宇宙を作ったものと同じ「理性」なのだから、それは当然のことである。その「理性」が目を向けたものは、どんどん進化し洗練されてゆく。偉大な「理性」が目を向けているからこそ、「機械」を始め人間の作ったものはみな進化し洗練されてゆくのである。人間の「理性」が、世界にある「人工」のモノには、ことごとく発揮されて、世界にあるモノというモノが進化し続けているのである。だが「理性」が目を向けないものは、進化から取り残されて、一向に洗練されることもない。そして、この世界には「理性」が目を向けないものが二つだけあって、一つは「人の行為のルール」であり、もう一つは「宗教的知識」である。人の中にある偉大な「理性」なのだが、この「理性」が目を向けないこの二つのものだけが、昔と変わらず、進化しないままなのである。
 
 「理性」は元々、「ルール全般に関わる能力」である。この宇宙にある全てのルールに関わっているのが私たちの「理性」である。その「理性」がこの宇宙にあるすべてのルールに対して要請するもの、
 @「ルールが法則と呼ばれうるにふさわしいものであること」
 A「ルールどうしが無矛盾であること」
 
 私たちはこの「理性」の要請を、ごくごく当たり前のこととして受け取っているし、感じてもいる。だから、私たちがつくったルールはたくさんあるが、憲法や法律、ゲームやスポーツのルール、また社則や校則であっても、ひとつのルールの体系の中に明らかに矛盾しているルールがあるというものには一度もお目にかかったことはない。そんなことがあれば、国民は混乱するし、スポーツやゲームはできないであろうし、社員も生徒も右往左往するであろう。だから、そんなルールが作られたことは未だかつてないであろう。実情はともかく、私たち人間が作ったルールは全て、見かけ上は無矛盾なルールの体系だと考えられる。私たちの「理性」はルールが矛盾することを決して許さないので、そういうものを見かけたら、誰でもがおかしく思うのである。また、もしルールの中に「特権」が記載されているのであれば、私たちの「理性」は執拗にこれを監視する。「特権」はルールそのものを歪めたりルールそのものの価値や意味を台無しにする可能性もあるから、私たちの「理性」は厳しくこれを監視するのである。「特権」の私的使用は「乱用」と呼ばれて、罪となるべきものである。私たちの「理性」は「法則」と呼ばれうる、「法則」にふさわしいルールを求めているのだから、(「法則」にはふさわしくない、なるべくなら「ルール」の中にはあって欲しくない)「特権」や「ルールのお目こぼし」を監視するのも、ごくごく当たり前のことである。

 さて、私たち人間は、ご覧のように「理性」の要請にはごく普通にことごとく応えていると思われ、結果として私たち人間が今まで作ったすべての「ルール」の中には、誤った「ルール」など一つもないと考えられる。ただし、これは「ルール」が本来持つべき「形式」に関することであるので、「ルール」の内容そのものが誤っているかどうかとは無関係である。そして、「ルール」の内容に関することについては、実際私たちの「理性」は何も要請していないのである。極端なことを言えば、私たちの「理性」は、「奴隷制度」やカーストなどの「身分制度」を禁止するような要請はしていないし、「悪法」も認めているということである。
 「悪法」を認めている「理性」ではあるが、「ルール」は元々それが何であっても、何かを「維持」したり「継続」させたりする為には欠かせないものであるので、「悪法」という不適切な「ルール」によって維持されるものなど原理的に有り得ない。それはどこかできっと「破綻」することになる。それゆえ、「理性」は「ルール」の内容そのものには関わらないのだと思う。今の世界にある「国家」の中で「悪法」によって維持されている国家というものがあるとしたら、それは放っておいても自滅するのである。誤ったルールで生き物を飼えば、病気になったり死んだりするし、誤ったルールでモノや機械のの機能を維持しようとしても、それはできない相談なのと同じである。この宇宙では、妥当なルール、適切なルールによって構築されたものが、妥当なルール、適切なルールで維持されている間だけそれらを「秩序」の高い状態に保って、可能な限り長く安定して存在させることができる唯一の方法なのである。

 カント先生は、「道徳形而上学言論」という本の中で、「破綻」をするルールについていくつか書いておられる。その中の例を引き合いに出しても良いが、もっとわかりやすい例を出そうと思う。
 みなさんは、「好き」な人を大切にすることを当然だとお考えであろう。また逆に「嫌い」な人を大切にする必用などないことを当然だと考えておられるかもしれない。だが、この「ルール」をみなさん自身がお持ちであれば、みなさんはこの「ルール」によって「自己破綻」することになる。なぜなら、自分が従っている「ルール」は、全ての人間が従ってもいいはずだから、当然、自分自身も他者も同じルールであることは承認されなくてはならない。自分はこのルールだが、君はダメだ、なんて言うのは全ての「ルール」に「法則性」を求める私たちの「理性」が認めるわけがない。だから、このルールは自分が他者に対して適用しても良いが、他者が自分に適用しても良いことになる。そうすると、みなさんは、誰かに「好き」になってもらわないと大切に扱ってはもらえない。またよしんば「嫌われ」たりするとえらいことになる。だが、世界には70億もの人がいるから、みなさんは、そのうちわずか一人か二人か、多くても十数人ぐらいには「好き」になってもらえて大切にされるだろうが、残りの全ての人には大切にされないことになってしまう。これは、実に困ったことだ。まともに街中さえも歩けない。なぜなら、まわりにいるのは、みんな自分のことを「好き」ではないので大切には思ってくれない人ばかりだからである。だが、私はこのことを知っているので、私は「好き」と「嫌い」をルールの中に持ち込むことをやめてしまった。私流に言えば、私のルールの中には「好き嫌い」のパラメーター(助変数)がないのである。だから、私は「好き」な人も「嫌い」な人も同じように大切にする。事実、私は何度も「お前なんか心底大嫌いだが、大切にはするぞ!」と叫んだこともある。それゆえ、私は「破綻」することがないのである。
 まぁ、自分勝手なルールに従っている人は大勢いるが、ルールの「法則性」(法則性の中身の一つである「普遍性」=誰でもがそのルールに従っても良いこと、)は誰の「理性」も要求することだから、そのようなルールに従うことは結局「自己破綻」するのである。だから「自分で自分の首を絞める」ようなルールに従うことはお止めになった方が良い。

 と、ここまでは、いいのだ。だが、私がカント先生の本を読んでいるときに、ひとつだけ解せないことがあった。それは、私が思うに、非常に大勢の人が本当なら自己破綻するはずのルールに従って生きているはずなのだが、破綻していないのである。上述の例もそうだが、「好きな人を大切にする」というこのルールは大勢の人が何の疑いもなく当然のように従っているであろうから、本当ならとっくにみんな「自己破綻」しているはずなのである。だが、この例に限らず、「家族主義」も「民族主義」も「愛国主義」も、みんな「自己破綻」するルールなのだ。なぜなら、自分が従っているルールは他者も同じように従っても良いことは確実なのだから、お互い「自分」を「特別扱い」するようなルールでは、うまくやっていけるはずがないのである。このようなルールで自己破綻しないとしたら、自分の従っているルールは「他者」には認めないというルールにおける「不平等」が顔を出さなければ、絶対に維持できないルールなのだ。だから、「ルール」上の「不平等」である「自分」を「特別扱い」にして、自分自身が従っているルールの「外」に置くか、あるいは自分の従っているルールそのものを「特別」にしない限り、「自己破綻」を防ぐことはできないはずなのである。
 だが、世界を見渡すとそうではない。誰にでもあるはずの「理性」が、「ルール」の法則性を要請する「理性」が、「特別」を認めたり「ルール」の「不平等」を見逃したりはしないはずなのである。先に書いたように、私たちの作ったルールにはたったの一つも「理性」の要請に応えていないルールというものはないのだから。


 私の「理性」は、自分を「特別扱い」するようなルールの一切を禁じてはいる。だが、私の周りにいる人のほとんど全ては、自分を「特別扱い」するルールの中でしか生きていないのである。「私は好きな人だけを大切にするが、あなたは好きでない私でもちゃんと大切にしろ!」 みなさんはこんなルールに従って暮らしているのだ。にも関わらず、破綻をしないのはなぜか? いいや、みんなやっぱり「自己破綻」しているのである。もう、何千年も前から世界中にいる人は全て「自己破綻」しているのである。だが、破綻しているのは「個人」「家族」「民族」「国家」ではなく、「個人間」「家族間」「民族間」「国家間」にある「関係性」(つながり)であって、これはとっくの昔に破綻しているのである。何故なら、お互いが「私は好きな人だけを大切にするが、あなたは好きでない私でもちゃんと大切にしろ!」 というようなルールを押し付け合ってきたからであり、このような不平等なルールを成立させる原因が、私たちの「習性」にあるからである。
 たった一度の「争い」で「力関係」を決めてしまうと、その後は「力」の順位の高いものから順番に「有利なルール」を獲得して、「有利なルール」において生きてゆくことができるという「習性」を身につけたのだ。そして人間は、たった一度の争いをも避けるために、「力関係」を把握する能力を身につけたし、「力関係」を判断し安いように「位階」や「役職」というものを考案したのである。
 この群れを作る動物が持つ「習性」によって、「力」のある人は「不平等」なルールを平気で押し付けるし、「力」のない人は、反発もせずに甘んじて受容するのである。だから、誰にでもある「理性」は、私たちの「行為のルール」、それは人が知らず知らずのうちに身につけていて、無意識の中に格納された自分自身の全ての行為を制限するルールなのだが、これだけは、見ないのである。いや、見れないのである。誰も彼もが決して「妥当なルール」「適切なルール」に従っているわけではないので、誰も「理性」をこの領域にだけは使用しないというわけだ。
 「不平等なルール」であっても、「力」のある人から押し付けられたものなら誰も文句は言わないのである。また、「力」のない人へならば、「不平等なルール」であっても平気で押し付けるのである。「力」が均衡していたり、「力」の逆転が起こる時には、人も国家も一触即発の危機である。「パワーバランス」などと言っても、そんなことはどうでも良いのである。どこの誰が「力」を持とうが、どの国が「力」を持とうが、結局「ルールの不平等」は変わらないから、何の意味もないのである。何度も言って申し訳ないが、この宇宙は「法治フィールド」なのだ。だから、この宇宙では、妥当なルール、適切なルールによって構築されたものが、妥当なルール、適切なルールで維持されている間だけそれらを「秩序」の高い状態に保って、可能な限り長く安定して存在させることができる唯一の方法なのである。
 本当に「力」の多寡は関係がないのである。「ルール」だけが問題であるのだ。自分の「外」にある「ルール」について探求し、「宇宙」や「自然」のルールを数多く見つけ出した人間の「理性」、それを応用して、素晴らしいモノを作るのに必要なルールもまたたくさん構築した人間の「理性」、時代と共にではあるが、社会を維持するために、矛盾のない平等性のあるルールを作ってきた人間の「理性」、だが、「自分の行為のルール」だけは決して見る事はなく、ずっと置き去りにしてきたのである。

 そして、とっくの昔に人と人との「関係性」は破綻しているのである。「部分」であるものが、「妥当なルール」「適切なルール」で、繋ぎ合わされて一つの大きな「全体」を構築するこの宇宙の中で、私たちのいる「人間社会」だけは、「妥当なルール」で繋ぎ合わされてはいないために、「関係性」は破綻していて、「全体」を作れないでいるのである。 (次項に続く)

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