V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 12. 「理性」のメカニズム(2)
 7.理性がもたらすもの

 「理性」とは「ルール全般に関わる能力」であると私は述べた。法治フィールドであるこの宇宙は、「ルール」によってすべてのものに制限を与えることで秩序の高い状態にして、すべてのものがおだやかに存在できるようにするという方法で構築された世界である。だから「ルール」に関わる能力である「理性」は絶対に欠かせない。「理性」はあなたが知りたいと思う「ルール」をあなたに見つけさせてくれる。「理性」はあなたが作りたいと思う「ルール」を作らせてくれる。「理性」はあなたに従ってはいけない「ルール」を教え、そして従ったほうが良い「ルール」を教えてくれる。そんな「ルール」という制限を与えるものと深く関わっているのが「理性」なのだが、その「理性」が、私たちにもたらそうとしているものは何と「自由」なのである。
 あなたにとって、「ルール」は制限を加えるものであり、制限されるのはあなたの「自由」なのだから「ルール」はほとんどの人にとって嫌われ者であるかもしれない。だが、私たちの世界に「ルール」がないとしたら、あなたはどうなるであろう? あなたの隣人の寝起きが悪くて、不愉快だからという理由であなたを傷つけるかもしれない。腹が減ったと思えば、あなたの家に押し入って食料をかっさらうかもしれない。ルソー先生は、このような人間が本来持っている野蛮な「自由」を制限するために、私たち一人一人は「社会」という大きなものと契約をして、個人が持つわずかな力を集めることで、野蛮な「自由」を制限し、代わりに契約に見合う別の「自由」を手に入れるために、私たちは「社会」というものを構築するのだ、述べておられる(社会契約論)。では別の「自由」とは何か、それは社会に生きる人間らしい洗練された「自由」とでも言うべきものである。
 簡単な例をあげよう。釣り人というのは、新しくできた防波堤が大好きである。なぜなら、魚の方でも新しく水の中にできた構造物が大好きで集まってくるからである。競争のない「ニッチ」(生き物が暮らすのに適した場所)をいつも探しながら生きている魚にとって、新しくできた場所はまさに魅力的で、我先にと集まってくる。だからそういう場所は良く釣れる。特に近年は相当沖合まで伸びた大きな防波堤が建設されるようになったから、釣り人は毎日のようにそこへ出かけて魚を釣る。ところが、彼らの理性はどういうわけかそういう釣り場のルールを釣り人には教えない。防波堤から落ちたら、這い上がることなどできないのがわかっているのに「ライフジャケットを付けろ!」とは、彼らの理性は彼らに進言しないようなのである。釣り人の方には、防波堤を釣り歩いた経験がある。彼らは自分の経験から自分が落ちることはない、自分だけは落ちないと思っているらしく、何の準備もしないでいつものように防波堤に釣りをしに行く。だが、やはり事故は起きてしまい、一人の人がお亡くなりになったりすると、自治体の方でも放っては置けなくなる。最初のうちは監視員のような人が来て、「ライフジャケットを装着して釣りをしてください。」と拡声器を使って釣り人に注意を促す。これを何度も何度も繰り返しても、一向にライフジャケットを着て釣りをする人の姿がない。その矢先二回目の事故が起きて、また一人釣り人が命を落とす。釣り人に注意を促すだけだった自治体が、今度は本格的な対策を講じようと決意する。とはいえ、いつもいつもどこの自治体も決まったように対策は一つである。それは大きな柵を作ることだ。柵やフェンスは人の行為を「遮蔽」によって制限するものである。これは、監獄と同じ原理で人の行為を制限するものだ。釣り人の野蛮な「自由」は社会的に洗練された「自由」に変わることはなく、それゆえ、釣り人はより多くの自由を失ってしまったのである。こんな話はどこにでもあって、全国にある多くの防波堤も同じような事情であるし、多くの川や池でも人が入ることを制限する柵やフェンスが設けられている。私が子供の頃には池にも川にも柵やフェンスのようなものはなくて、人は自由に川に入って遊び、池で釣りを楽しんだ。当時の川や池は護岸工事なども行われていなかったから、子供でさえも岸辺から裸足になってズブズブと川や池の中に入っていってザリガニだのカメだのカエルだのを獲って遊んだものだ。ところが、そんな川や池のほとんどは今では、人と自然を隔てる柵やフェンスで遮蔽され、護岸はコンクリートで固められていて、とても自由に遊べるような場所ではなくなってしまった。人と自然を遮蔽すると、人が学ばなくてはならない「人」と「自然」とのあいだにあるルールを学べなくなるから、そう言う人がレジャーと称して夏場に水辺に繰り出すと、当然多くの事故が起きる。監視員と呼ばれる人の数を増やしたりしても、そもそも人は「自由」なのだから、焼け石に水である。
 「ルール」を屁とも思っていない人のおかげで、多くの人がより不自由な状況に追い込まれることは、あなたが思いつくだけでもたくさんあるであろう。喫煙者も同じような状況であるし、自転車に乗っている人も今は同じような状況にある。こんな話は全国のどこででも、毎日のように起こっていて、その度に法律や条例が制定され、あるいはフェンスや柵もたくさんできて、人はどんどんどんどん「自由」を失っていってゆく。その原因は多くの人が「理性」によって導かれる内面からの「ルール」に従わなくなったからだ。「理性」はあなたを可能な限り「自由」にするために、いつもいつも妥当な「ルール」を指示しているのにもかかわらず、あなたは全く耳を傾けようともしなくなってしまったのだ。あなた自身の「理性」に従っていれば「自由」でいられたものを......。「理性」はあなたにいつもいつも最も妥当なルールを教えてくれる。最も妥当なルールとは「最大限の自由」をあなたにもたらす「最小限のルール」なのである。



 8.理性が作り上げるもの
 

 健全な精神は健全な肉体に宿るという。また、健全な精神が健全な肉体を作るとも言う。だがその私たちの精神を作り上げるのが、他ならぬ「理性」なのである。「理性」は私たちの「精神」を作り上げる。だから私たちの「精神」(スピリット)とは「私たちの行為のルールの束」である。そしてその「精神」(行為のルールの束)が私たちの「経験」を作り上げる。そして私たちが「経験」したことを保存しておくところが「心」と呼ばれるものだ、と私は考えている。つまり

 @「理性」は「精神」という「人間の行為のルールの束」を作り上げる。
 Aそして「精神」は私たちの「経験」を作る。
 B「経験」が蓄積され、集まっている場所が私たちの「心」である。
 C新しい「状況」と出会わないでいる限り、私たちは普段はいつも通りに精神にあるルールに従って
  行動している。
 D「内省」や「反省」は精神にある「ルール」について、「心」に集まった経験を参考にしてその正しさの
  是非を確かめることである。
 E「理性」は誤っていると思われる「ルール」を「精神」から取り除くし、正しいルールで精神を構築しようと
   もする。


 これは、私の場合であって、そもそも@がみなさんと私とでは異なっている。みなさんの「精神」は理性によって作られてはいない。みなさんの「精神」は先に書いた、習性や本能、慣習や慣例、他者の命令や指示、他者の期待などで作られている。そしてDを行う人もほとんど見たことはない。みんな自分が正しいルールの持ち主だと思っている。私の従っているルールが最善の最高のルールだと、何の疑いもなく信じているのである。つまり、ほとんどの人は「原理主義者」と同じようなものだということだ。
 私は、「より良き世界」を作りたいと思っているし、そのために世界に貢献したいといつも思っている。世界が完全に「良きもの」になることはなくても、(今よりも)「より良き世界」は作ることができるはずである。そして「より良き世界」には「より良き人間」が住んでいるはずだと思う。だから、私自身も「より良き人間」にならなくてはならないのである。人間が完全に「良きもの」になることはできなくても、(今よりも)「より良き人間」にはなれるはずである。そのために人がなすべき唯一のことが、「自分の行為のルールを整える」ことだと私は考える。だから、私は私の「理性」を尊重し「ルール」を尊重して生きているのである。ほとんどの人が求める「財力」や「権力」といった「力」を手に入れようとすることは、「より良き人間」になることとは無縁のことのように思えるので、私にはできないのである。私は一生、自分の行為のルールを整えることだけに専念して生きてゆくつもりである。

 ところで、ちょっと余談にはなるが、みなさんがご自身の「行為のルール」を変える簡単な方法を一つお教えしよう。それは「決心」することである。「決心」をすれば、みなさんの「行為のルール」は簡単に変えられる。そして、「行為のルール」を変えたのだから、みなさんの「経験」も変わり、「経験」の集まりである「心」も変わる。「人を怒ったり、怒鳴りつけることはもうやめよう」と決心したら、あなたは自分のルールを変えたことになる。そしてあなたの経験からは、「あなたが人を怒ったり怒鳴りつけたりする経験」が無くなる。そうすると、あなたの「心」の中にはそういう経験は貯まらなくなるから、「心」も変わるのである。
 『「決心」をすればいつでもあなたの行いは変えられるのよ』と私に教えてくれたのは、マザーテレサだ。とは言え、私は彼女から直接教わったから、彼女が他の人に教えたかどうかはわからない。この言葉はマザーがお亡くなりになる2週間か一ヶ月ほど前であったかに教わった。私は、生粋の科学主義者なのだが、どういうわけかたくさんの神秘体験がある。(科学に携わる人の多くが実は神秘体験をたくさんしているので、特別なことではないのだが)これもその一つで、当時はバカ高いマッキントッシュにこれまたバカ高い「イラストレーター」と「フォトショップ」というソフトをインストールして、毎日のようにパソコンで絵を書いていた。そして私の敬愛するマザーのコラージュ作品を作って、壁に飾るために額縁に入れようとしたその時に、私は訪ねてもいないのにマザーがさっきの言葉をおっしゃたのである。より正確には「人にはね、誰でも持っているとても素晴らしい能力があるのよ。それはね「決心」という能力よ。「決心」をすれば、あなたの行いはいつでも変えられるわ。忘れないでね。必要な時にいつでも変えられるからね。」
 「神秘体験」というのは、納得する度合いが大きいことは確かなことなので、私は瞬時にこのことを納得したのであるが、それ以来私は随分とたくさんの「決心」をしてきた。まぁ、「決心」をするということは「行為のルール」を変えるということなので、私がたくさんの「決心」をしたということは、変えなくてはならないルールをたくさん持っていたわけだから、人に言って自慢するような話ではないのだが。

 以上、私が私なりに考える「理性」というものについて書いてきた。言っておくがこれは一般論ではない。これは私の「理性」の話であることを忘れないようにして欲しい。私にとって「理性」は私をより良き人間にしてくれる唯一のものである。私は「理性」を「仏性」だと思っているし、「仏」や「神」に私を導く唯一の燈明だとも思っている。まぁ、カント先生がおっしゃっている通り、ときおり「理性」は過酷な要求を私につきつけることもあるが、頑張って耐え忍ばなければならないと思っている。もう私には後戻りはできないのである。正しいことが何かを知ってしまった、私には。
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