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 V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 13.「理性」のメカニズム(1)
 @私が「理性」に気づいたきっかけ

 普通に生きてる人にとって、「理性」は何ほどのことでもない。「理性」などという言葉を持ち出しだ途端、ほとんどの人はこむつかしい話になると思って、敬遠するのがオチだ。私だって、物理学について学び始めるまでは、「理性」という言葉など一度も使ったことはなかったと思う。そもそも、それが自分の中にあるなどとは私自身も思ってもみなかった。
 物理学は、眼前にある「現象」について「どういうルールやメカニズムがあればこのような現象が起こるか?」について探求する学問だ。そして物理学者が扱う現象は、特別なものは何一つなくて、「リンゴが木から落ちる」と言ったような、ごくごく当たり前の現象ばかりだ。そんな物理学では、「物理学者が予言する通りのことが発見される」ということがよくある。私たちの国で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、「中間子」というものの存在を予言しそれが実験で見つかった功績でノーベル賞を与えられた。小林・益川の両物理学者も、「クォークが6種類以上あるはずだ。」ということを予言した。実際クォークは6種類が確認されたので、その功績によってノーベル賞を受賞した。最近話題のヒッグス粒子も、ヒッグス博士が1960年代の前半にその存在を予言し、およそ50年の年月を経てやっと実験で確認された。(確実ではないが)
 さて、物理学者(特に理論物理学者と呼ばれる人たち)が
、物理学の探求に使う道具は「数学」だ。だから物理学者と数学との間には切っても切れない縁がある。物理学者は、自分の取り組む現象の把握に行き詰まると、その現象をうまく説明するために必要な数学を今までに構築された数学の中に探しに行くか、あるいはニュートン博士が「微分」を創造したように、自分で新しい数学を組み立てる。「数学」は人間の頭の中だけで構築された「無矛盾なルールだけの体系」だから、数学そのものが現実との整合性を取りざたされることはない。それに元々「数」は抽象的な概念に過ぎないので、数学の世界が表現するものは現実の世界の中には何一つないと言っても良い。だから、数学者は「ルールの無矛盾性」さえ考慮に入れていれば、思うがままに数学を構築することができる。例えば「虚数」とよばれる「数」を用いた数学や、「無限」を扱う「集合論」などは、現実のどこを探してもそれと適応しそうなものさえ何一つも見つけられないし、現実的な有用性など微塵もないように思える。「ユークリッド幾何学」は、5つの公理とそれによって証明された500以上の定理を持つ幾何学の体系で、歪みのない「平面」や「空間」に配置された図形の性質を記述するものだ。ユークリッド幾何学は、私たちがものを組み立てる時には普通に使っている数学なので、実用性も十分にある。一方で、歪んだ空間に配置された図形の性質を記述する「非ユークリッド幾何学」は、数学者の頭脳ゲームのようなものだ。元々数学者が現実的な有用性のことを考慮して数学を構築したりはしないし、そんな必要もないから、数学者は自由に新しい数学を作り上げる。そのようにして作られた「非ユークリッド幾何学」なのだが、「リーマン幾何学」も「ロバチェフスキー幾何学」もともに物理学には欠かせない、現実の世界の記述には絶対に必要な数学なのである。
 物理学という「現実の世界」を探求する学問は、「数学」という人間の頭の中だけにある「無矛盾なルールの体系」を必要とし、それを道具とし、それなしでは「現実の世界」の探求ができないし、それなしでは「現実の世界」を記述できない、という事実が頑前とある。そして、私たち人間は、「数学」を道具として用いる物理学のおかげで、「世界」というとてつもなく大きなものを理解することに多大な成功を収めている。実に不思議なことだ。ちっぽけな人間が、世界に比して塵芥に過ぎないほどの人間が「世界」を知ることができるなんて。アリは象の本当の姿を知らないというが、私たちは世界の本当の姿を知っている。これが事実なら人間の中にあってルール全般を司る能力である「理性」は、十分に信用するに足る。それどころか、物理学が探求の対象とする「星の世界」を理解するのには、「理性」だけで十分であると言えるのだ。
 人間が持つ「理性」が「星の世界」を理解するのにもっとも適していることを知った私は、その時初めて「理性」の偉大さに気づいたのである。星の世界は物理学者によって探求され解明されたおかげで、今では宗教家も神秘主義者にも見放されてはいるが、もともと「神々の世界」「天界」である。「太陽」は「神」であったのだ。それが人間の「理性」によって解明されたのだから、(人が理解した場所からは神が逃げ出すとしても)実に痛快、人間も大したものではないか。
 私にもみなさんにも「理性」がある。「言葉」を理解し、「数」という概念だけのものを操って「算数」ができるのだから「理性」はある。そしてその理性は、「世界」を理解するのに最も適している。「理性」だけで「世界」は理解できる。「理性」が太刀打ちできないとされているのは宗教や神秘主義の世界だけなのだが、「人ごときにわかるはずはない」という根拠のない思い込みと、理解されては困る人たちによって知識そのものが遠ざけられているからだと私は考える。だから、私は理性だけを使って、物理学によって発見された「星の世界」の現象から、その領域についても解明しようと思っている。(まぁ、一応の成果はもうあるのだが)

 
 A「理性」とは何か?

 「理性」とは何か? と真っ向から聞かれるとなかなか答えるのがむつかしい。 広辞苑では理性とは@概念的思考の能力A真偽、善悪を識別する能力B超自然的啓示に対し、人間の自然的な認識能力 などとなっている。また、私の先生であるカント先生は理性の専門家だが、先生が言うには理性とはア・プリオリな原理の能力の総称と言うことになるらしい。私は、とても単純に「ルール全般に関わる能力」だと考えている。「理」とは元は「整える」という意味を表す動詞であった。そこから転じて「整えるもの=ルール」を表すようになった。だから、私は「理性」を、単純に「ルール全般に関わる能力」だとし、しかもそれが「性」(習性として持っているもの)なのだから、人間全員に備わっている能力だと思うのである。
 
 私は、この宇宙が法治フィールドだと考えている。全ての存在はルールに従って構築され、全ての存在の間には「関係性」に応じたルールがあり、それゆえそれらが織り成すこの宇宙で起きる全ての「現象」は、ルールに従って成起し、ルールに従って変化し、ルールに従って消滅すると思っている。そして、この宇宙では@ルールが妥当であればあるほどA妥当なルールが順守される確率が高ければ高いほど、ルールによってもたらされる効果である「秩序」が高くなる。そして「秩序」を高く保っているのであれば、そこにあるモノは「安定」「安全」「安心」な状態が維持されると思っている。とは言え、全てのものは壊れて、全ての生き物は死すべき運命にある。ルールを遵守することで秩序を高く保ち、そのことで可能な限りものや生き物を安定させることはできても、壊れることそれ自体を防ぐことはできず、死すことそれ自体を防ぐこともまたできないのである。それは法治フィールドであるこの宇宙の中にある全ての「ルールの意味や価値」を失うことであるのだから。

 
とまぁ、これがこの宇宙の大まかな原理なのだと私は考えているのだから、そんな法治フィールドである宇宙を生きてゆくのに「ルール全般に関わる能力」である「理性」が必要でないわけがないと考えるのは当然であろう。そこで、私の理性がどのようにして機能しているかについてだけお話しすることにしよう。残念だが、私以外の人間の「理性」がどのように機能しているかについては私は良くわかっていないので一般論としての理性の機能についてはお話しすることができないのだ。とは言えカント先生という「理性」の専門家がおられるので、一般論については先生の著作をお読みになれば良い。先生は昔の哲学者だから、なかなかむつかしい言葉をたくさんお使いなられるので、読み解くにはそれ相応の時間もかかるであろう。だが、先生は矛盾するような言説だけは用いられてはいないので、宗教の教義や神秘主義者の言葉のように信じることしかできないのではなく、時間はかかるが理解できるものである。


 1.私は、私の「理性」に気づいた。

 物理学者は、「物理法則」というものが持つ性質について、@それが物理法則と呼ばれうるものであるならば、「相対性原理」を満たして、「普遍性」と「絶対性」を持っていなければならない。Aそれが物理法則と呼ばれうるものであるならば、法則に従って起こる現象には「対称性」と呼ばれる特徴がなければならない、ということを要請した。(他にも、ある物理法則が他のどの法則とも無関係に成立していることなどありえない、とか物理法則同士が矛盾していることなどありえないとか、様々な要請がある。)正確には物理学者の「理性」が「物理法則」に対して要請したのであるが、この要請を満たすようなものを探すことで物理学は発展してきたのである。では、なぜ、物理学者の理性は「物理法則」に対してこのような要請をし、また物理法則はなぜ物理学者の理性の要請を満たすものが発見されるのであろう。まぁ、この件に関してはアインシュタイン博士の言葉「私はなぜ人間が宇宙を理解できるのか、そのことが私には永遠の謎です。」という言葉もあることだから、深くは考えないことにしても、とにかく、「人間理性」は「星の世界」を理解できることが確実であり、星の世界は「人間理性」にかなったルールで構築されていることも確実である、ということを私は知った。
 それ以来、私は私の理性を信頼し、尊重するようになった。そして、私の行為のルールを「星のルール」と同じものにする決心をした。「私の行為のルールは「相対性原理」を満たしたものでなければならない」と言う私の理性の要請を私自身に課したのである。



 2.私は、この宇宙にあるもの全てが「同じルールを遵守するもの」であることに気づいた。

 私は、物理法則というものが普遍性と絶対性を持ったものであることを知っている。だから、この宇宙にあるすべての存在は「物理法則」を遵守している。そしてその「法則のありか」について考察している時に気づいたのだ。物理法則のありかは個々に存在する全ての存在自身の中にあって、決して「他」から強制されたものではない。つまり、「物理法則」は守らされているルールではなくて素粒子でも原子でも分子でも、そして私たちや星でも銀河でも、自ら守っているルールなのである。(その根拠についてはここでは話が長くなるので省略する。)私は全宇宙のすべての存在と私の間に同じルールを守っているもの同士という「関係性」を確保した。私は、宇宙に比して塵芥以下の存在である。宇宙の有する時空はとてつもなく大きいから、私はこの宇宙の中に生まれたのにもかかわらず、自分と宇宙の関係を知らなかった。しかし、私はこの時初めてそれを知った。私もこの宇宙にあるすべての存在と同じルールを守っているのだ、ということを知ったのである。そして、私は大泣きした。同じルールを守っているもの、しかも押し付けられたわけではなく自ら進んで守っている同士であるにもかかわらず、そのことを私が知らないばかりに生きてはいないモノを「たかがモノ」として扱ってきたことを後悔し、生きているものでさえも、同じルールを守っているもの同士というのではなく、自分とは異なるただの生き物としてだけ扱ってきたことに大泣きしたのである。また同時に、私は宇宙と自分との「関係性」を見つけることができたという、大きな喜びの涙も流していた。私の世界はいっぺんに大きく変化した。それからの私の世界には「他者」がいなくなった。人であれ、生き物であれ、モノであれ、星であれ、銀河であれ、この宇宙にあるすべての存在は私と同じルールを自ら順守しているものばかりなのである。同じルールを遵守しているものを全く関係のないという意味である「他者」などと呼べるのであろうか? だから、私の世界には「他者」も「他人」も「他物」もない。私と関係がない「他」はないのである。ほとんどの人間は自分勝手に自他の区別を付けるから、みなさんの世界は自分とは何の関わりもない「他人」ばかりがいて、自分とは何の関わりのない「他物」ばかりがある世界であろう。そして、他者と自分のあいだには、何のルールも持っていないだろう。でも、私の世界には「他」がないので、関わりのないもの関係性のないものが一切ないのである。だから、全てを同じルールを遵守するものとして扱わなければならない。同じルールを誰にも強要されずにお互いに守り合う間柄を人はこう呼んでいる、「友」と。だから、私の世界には「友」しかいない。



 3.私の世界には「友」しかいない。だから私は、この私が生きることで何者かを傷つけないように、またもし傷つけることがあってもそれを最小限にするようにと「妥当なルール」を身につけることを決心した。

 ここから先は私の「理性」がオートマチックに機能してくれた。私は、ほとんど意識しなくても、私がなすべきこと、私が取るべき態度や行為、それらを全て私の理性が私を導き、私に指示を与えてくれた。私が何かについて知らないことも私の理性が教えてくれた、だから私は、その知らないことを探求すればよい。また何か考えなくてはならないことも、私の理性が教えてくれた。とにかく、私のなすべきことの全てを私の理性が教えてくれるのである。そして「理性」は世界の誰とも、世界のどんな生き物とも、世界のどんなモノとも「共にあろう」と思う私に、必要な知識はどこを探せば良いかを教え、何を観察すれば良いかを教え、そして何について熟考すれば良いかを教えてくれるのである。そして私は身につけることができた。この宇宙を生きてゆくために必要な、とても重要なメカニズムを。それを私は、「配慮」のメカニズムと名付けた。



 4.「配慮」のメカニズム

 私たちは、それが「たかがモノ」でも「生き物」でも、もちろん「人」でも、とにかく共にあらねばならない。なぜなら、これら全てが「同じルール」を順守しているからであるし、この宇宙が「法治フィールド」であって、何者をも「ルール」の外へは追いやっていないからである。宇宙のルール、自然のルールは人が逸脱することができないルールである。「物理法則」「化学法則」「生物法則」などなど、自然科学によって発見されたルールは、私たちがそれを見出しそれを利用することはできても、ルールそのものを改めることもできなければ、逸脱することもできない。宇宙(自然)が作ったルールには、何者をも逸脱できないようなメカニズムが組み込まれている。だからこそ、この宇宙にあるすべての存在は、宇宙が認めたものである。宇宙が認めた存在、宇宙のルールをしっかりと遵守している存在だけが、この宇宙に存在している。そんなものを「人」が傷つけてもよい、排除しても良いという理屈はない。人間の「神」は、時折自分にとって不都合な人間の排除を「聖戦」とかと言って人に命じることがあるみたいだが、宇宙の神はそんなことはしない。何故なら人の行為がいかようであっても、それらは全て「人の行為のあるべきルール」は逸脱したものであるかもしれないが、決して宇宙のルールを逸脱したものではないからである。宇宙の神のルールは逸脱などできない。誰も罪を犯すことなどできないのだから、宇宙の神は誰をも何物をも罰することなどないのである。宇宙の神が罰することはしないものを、人の神や人ごときが罰することなどできはしない。宇宙に比べれば、人の神や人など無価値で無意味な存在と言えるほどであり、それほど宇宙は大きな全体であるからだ。だから、人(あえて、人ごとき)がそのような傲慢を主張することについては私は怒りを覚える。宇宙は「物理法則」というルールをすべてのものに与え、自ら順守させているのだから、みんな同じルールを守り合うものしかこの宇宙にはいないのだ。同じルールを遵守するものを、粗末に扱ったり、排除したりしていいものであろうか? 

 例えば、人は、「民族」という、同じ言葉を話し、同じ習慣を身につけた人の集まりを「特別」に大切にする。「民族主義」と呼ばれるものだ。また人は同じ領土に住み同じ国法というルールを守っている人を「特別」に大切にする。「愛国主義」というものだ。また人は血縁という繋がりがあり、細部に至るまで同じルールを身につけた人を「特別」に大切にする。「家族主義」と呼ばれるものだ。でも、人の行為のルールの違いなどまさに氷山の一角である。「物理法則」「化学法則」「生物法則」そしてこの星に生まれた生き物として、動物として獲得した「習性」や「本能」などのルールがあって、それらはみんな人類共通のルールである。ただ、「人の行為のルール」だけが人にはとても目立って、ほとんどの人にはそれしか目に入らないだけだ。他のルールは全部、人類共通のルールをお互いに順守しているというのに。みなさんには目立つことかもしれないが、私には「人の行為のルール」の違いなど、取るに足りない僅かな違いなのだ。数多ある自然のルールのうち、人と人との間のルールが異なっているのはたった一つ「行為のルール」だけであって、もっとたくさんの同じルールを守っているからこそ、私たちはお互い「人」として生まれているのである。
 「みなさんが、同じルールを遵守しているからという理由で何かを大切にするというのであれば、関わりがあるという理由で何かを大切にするというのであれば、それならば宇宙にあるすべての存在を大切にしなくてはならないということだ!」
 だから、私には大切にしなくてもいいものがこの世界には何一つない。だから、私は「配慮のメカニズム」を身につけた。この宇宙にあるものすべてのものを大切に扱うために私の理性が私に教えてくれたメカニズムだ。

  @私が何者か(ものであっても生き物であっても人であっても)と出会ったら、私はよく観察する。出会ったもの
   がどんなルールに従っているのかについて観察し、私はその相手が従っているルールの把握に務める。

  A出会ったものがどのようなルールに従っていようとも、この私と共にあるために、私はどんなルールを順守
   すれば良いのかについて考える。

  B私が取るべきルールについては、いくら時間がかかっても私の「理性」がいつのまにかオートマチックに私に
   指示を与えてくれる。

  C私は私の理性に従いルールを順守し続ける。私のルールは、誰にも強要されたわけではない。誰にも指示
   されたわけでもない。誰に命令されたわけでもない。私自身が自ら進んで守るルールとして、私の中に生まれ
   たルールである。お互いが傷つかず、共に可能な限り長く存在し、そして共にいつも「仲良く」あるために、
   私自身が自ら進んで守らなければならないルールである。

 これが、私の「配慮のメカニズム」だ。人見知りする人や子供がいるだろう。でも、そう言う子供たちは自分がその人の前で取るべき態度がよく分からないから、人見知りと呼ばれる状態になるのだ。それは相手のことがよくわかっていないからであり、それゆえ自分が取るべき態度もよくわからないのだ。私は、相手を傷つけるわけにはいかないのだから、誰の前でも「妥当なルール」で振舞わなければならないと思っている。だがそのためにはその人がどんなルールに従っているかを良く観察して相手のルールを把握し、その上で自分のルールを決定しなければならない。だから、私も誰かのルールを把握するまでは「人見知り」の状態が続く。それゆえ私は俗に言う、とっつきにくい人間である。だが、仕方がない。相手のルールの把握が終わり、その上で私が従うべき妥当なルールを私の理性が見つけ出すまでは、相手を傷つけないで共に在る方法というのが見つからないのだから。あなたといつまでも仲良くいるために、すべてのものと共に仲良くいるために、私はこの方法以外の方法を理性から教わっていないのだから。
 


 5.「配慮」がなければ、人でもモノでも全然長くはいられない。

 あなたが生きているのは、たかがモノが「物理法則」を片時も欠かさず守っていてくれるからだ。モノはあなたに「配慮」して「物理法則」を守っている。あなたが生きているのは、あなたと関わるすべての生き物が、種ごとにある習性や本能と呼ばれるルールをずっと守り続けているからだ。すべての生き物はあなたに「配慮」して習性や本能を守っている。あなたが生きてゆけるのは、あなたと関わる人の全てがあなたに「配慮」をしてしかるべきルールをずっと守ってくれているからだ。あなたと関わる人のうち、誰かがルールを破ったりしたら、そのとばっちりをあなた自身も受けることになる。あなたの周りにあるすべてのモノが壊れず、生き物が傷つかず、人も傷ついていないのであれば、あなた自身が周りのもの全てに対してしかるべきルールを守ってあげているからだ。みなさんが、しかるべきルールを守ることをやめたり、しかるべきルールから逸脱したら、あなたの周りのものはすぐにでも壊れたり傷ついてしまう。このように、人でもモノでも、この宇宙にある全ての存在は、周りにある全てのものがしかるべきルールを順守することでしか長くはいられない。そして、宇宙にある全ての存在が、宇宙にある全ての存在のために、お互いの「関係性」の中にある「妥当なルール」を自ら進んで遵守することを、私は「配慮」と呼んでいるのである。みなさん自身も、周りのものすべての配慮がなければ、長くは生きていられないか、すぐに傷ついてしまうのである。モノは「物理法則」を守ることであなたに配慮し、生き物は習性や本能を守ることであなたに配慮し、あなたの周りにいる人はあなたにふさわしいルールを守ることで、あなたに配慮しているのである。
 
 中国の最初の統一王朝である秦の始皇帝は徐福に命じて、「不老不死の妙薬」を探させたという。もしあなたが本当に「不老不死」を手に入れた途端に失うもの、それがあなたの周りにあるすべての存在が、あなたのために自ら進んでしてくれているこの「配慮」なのだ。壊れないもの、傷つかないもの、死すべき運命にないものに対して「ルール」を守る必要など絶対にないのだから、あなたが不老不死になった途端に周りにあるすべてのものはあなたに対する「配慮」をしなくなってしまう。



 6.ルールを教えてくれるもの

 みなさんは、ルールを誰に教わったのだろう? まずは、教わらなくても生まれながらに身についている「習性」や「本能」というものがある。前項で私が訴えたのは、「力関係」が決すると、人間はその順位に応じ「有利なルール」の下で生きることができるという暗黙のルールを「習性」として身につけているということであった。そして、両親や祖父母や兄弟から、たくさんのルールを教わったであろう。教わったというよりも「習うより慣れろ」や「見よう見まね」で、小さな頃から一緒にいる人の態度や行為のルールを身につけたと思う。そして学校や職場でもたくさんのルールを教わった。学校では道徳を教わったであろうし、人として必要なルールを躾と称して身につけさせられたことであろう。職場では、上司や部下との関係の中にあるルールを教わったり、社会人としてのルールを教わったり、セクハラやパワハラが罪になることも、最近教わったであろう。
 私もみなさんと同じような方法で同じようなルールを身につけていたが、自分の理性を信頼することに決めたその時に、私はそれまで私が身につけたルールを全部、一旦は捨ててしまったから、多分今ではみなさんとは随分異なるルールで生きていると思う。そして今の私の中にあるルールはほとんど全て私の「理性」発のものであるから、人から教わったルールというのはほとんどない。それに先にも書いたように私の行為のルールは「相対性原理」を満たさなければならない。このルールは私の行為のルールを制限するルール、つまりメタ・ルールとしての役割をしているが、人から教わるルールのほとんどはこの原理を満たしていないので、私は聞き入れることができない。私のメタ・ルールはカント先生と同じルールなので、時代は違っても私とカント先生は同じようなルールで生きていると思う。
 そして私には他者から「守らされているルール」がたった一つもない。
 まぁ、宇宙にあるすべての存在のうち他者から「守らされているルール」があるのは、今のところ人間だけだから(他の星にいる「理性」を持った生き物はどうかわからないが)、私は自然に戻ったということなのだが、私のルールはその全てが「自分から進んで守るべきルール」なので、他者から強いられたり、命令されたり、指示されたりしたルールは全くない。だから、自分のルールが誤りであったなら、責任を回避することなどもなく、素直に謝らなければならない。ほとんどの人が持っているルールは、周りの人を見て自然と身につけたルールや、誰かの命令や指示や、あるいは守ることを強要されているルールである。なぜそうと言えるかというと、私は何のためにそれをするのか? とルールとして行っていることの「立法趣旨」を聞いても誰も何もほとんどろくな答えを持っていないからだ。特に習慣や慣例となっているものについてはほとんどまともな答えが帰ってこない。なぜ仏壇にお供え物をするのか、なぜ神社に行ったら柏手を打つのか、なぜ死んだら戒名を付けて墓を立てるのか、なぜ上司に中元や歳暮を送るのか、なぜ上司の命令を聞かなければならないのか? などなど、「当たり前」と「常識」という言葉を使わずに説明できる人などほとんどいやしない。私には、とても不思議なことだと思う。とは言え、ユングさんは「人間にも慣性の法則は十分適用可能である」とおっしゃっておられたから、今まで維持されてきたルールをそのまま維持しようとするのも人間の習性のなのかもしれない。
 もし、みなさんが生きていく上でのルールが@動物として持っている習性や本能Aずっと引き継がれてきた習慣や慣例B知らぬ間に身につけた身近な人の真似や他者の真似C他者の命令や指示D世間体と呼ばれる圧力E誰かから寄せられる期待、F宗教の教義などで埋め尽くされていたとしたら、一体全体あなたの「理性」はどこで働けば良いのであろう。実際、私の周りには自分で自分の行為のルールを決める人がほとんどいないのである。自分の行為であるにもかかわらず、ほとんどの人がなぜそれをするかについて全くご存知ないのは、自分で決めたルールではないからなのだ。逆に言うとみなさんは、行為のルールについては良く良くご存知なのかもしれない。だから、もはや理性などを用いてルールを求める必要もないのであろう。だが、それならばみなさんは人間ではない。なぜなら、「理性」は人間と動物を区別するものなのだから。ありとあらゆる場面や状況において、自らの行為を自ら決定することがなく、それらは自分以外のものから教わったルールで十分だというのであれば、そしてそれゆえ自らの「理性」を用いることなどないというのであれば、残念だが、そう言う人は人間的ではなく動物的である。

 この宇宙では、あなたの「理性」が、
 この宇宙でたったひとりの個性を持つあなたに、
 あなたにとってだけ適切なルールを常に教えてくれる
 たった一人の「先生」なのだ!

 

 うろ覚えで申し訳ないが、確か聖書にはこんなふうなことが書かれていたと思う。「その時言うべき言葉についてあれこれ迷うな、その時がくればそれは自然にあなたの元へやってくる」であったか、要するにその時語るべき必要な言葉は「神」から授けられるということなのだろうが、まさに「理性」がそのような役目を果たすのである。あなたに必要なことはあなたの「理性」が教えてくれるのだ。でもそれは、自らの「理性」を信じ尊重する人の場合だけであり、言葉を変えれば自分自身を信じることが出来る人間だけに訪れることなのではあるが。
 また、カント先生は啓蒙の標語について次のような言葉で語られておられる。
「啓蒙とは人間が自ら招いた未成年の状態から抜け出ることである。未成年の状態とは、他人の指導なしには自分の知性を用いる能力がないことである。この未成年の状態の原因が知性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の知性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年の状態の責任は本人にある。知ることをあえてせよ!自己自身の知性を使用する勇気を持て!」」
 みなさんも、ご自身の「理性」や「知性」を信用する勇気を持たれて、ご自身でいつも考えることをなさると良い。

                                                         (次項に続く)
 
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