V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 12. 「争い」と「ルール」の関係について(3)
 Eみなさんが「無意識」のうちにやっていること
 

 ここから先の話は、全てがみなさん自身のことなのだが、そのほとんどをみなさんは「無意識」のうちに行っているので、わかりにくいかもしれない。人に限らず生き物は、外の世界に向けて「感覚器官」が備わっているため、自分のことを知るのは意外にむつかしいものである。「内省」や「内観」などの手法を用いて、自分のことを省みる習慣を身につけている方もいらっしゃるかもしれないが、まずほとんどの人にとって「自分のこと」は最もわかりにくいことであろう。
 人がルールを身につける方法について少し考察してみることから始めよう。全人類が言語を話すことができることについては、誰も異議がないことだと思う。言語は、「文法」として整理してそのルールを書き出せば一冊の本になるぐらいだから、どの国の言語もかなり複雑なルールであることは間違いないであろう。そんなルールをいともたやすく身につけてしまうのが人である。だからと言って誰も複雑なことなんかはしていない。人はただただ周りの人の行為を観察して、「規則性」があればそれを見出して、自分も同じようにするだけなのだ。みなさん自身が身につけたほとんどのルールも、概ねこの方法で獲得しているはずである。そして誰もこれを意識して行うことはない。これは人に備わった「生き物」としての能力が「無意識」のうちにオートマチックに行うことなので、誰も意識できないのである。そして、みなさんが、その無意識のうちに行っていることの中に、「力関係の把握」というものがある。みなさんは人と出会うとすぐに、必ず無意識のうちに行うこと、それがこの「力関係の把握」なのである。ではなぜ人は「力関係」を把握しなくてはならないのか? それは「力関係」を把握しないことには、自分の行為や態度のルールが決められず、その人の前で振舞うことができないからだ。だから、人は誰でも、すぐに人をいろんな角度で値踏みするのである。自分より年が上か下か、自分より地位や身分が高いか低いか、自分より収入が多いか少ないか、自分よりいい学校を出てるかそうでないか、自分よりいい家に住んでいるかそうでないか、自分よりいい車を持っているかそうでないか、自分より能力のありそうなやつかそうでないかなど根掘り葉掘り聞き出したり、相手の態度や行動を観察して、人は「力関係」の把握に務めるのである。そしてそれができれば、やっと自分の行為のルールを決定することができる。相手との「関係性」において、どんなルールで接することが妥当であるかを決めることができるので、その人の前で振る舞えるようになるのである。

 この、無意識のうちに行なわれる「力関係の把握」だが、なぜ人はこんなことを行うのだろうか? また「力関係」がどうして「ルール」と結びつくのだろうか?

 これはこの地球に生まれた動物の「習性」なのである。つまり、サル山に住むサルの「習性」であるし、プライドと呼ばれる群れを作るライオンの「習性」でもあるし、有名な肉食恐竜であるティラノザウルスの「習性」でもある。群れで暮らす「動物」たちは多かれ少なかれ、みんなこの「習性」を持っている。そして、この「習性」は進化の過程に沿って発達してきたから、最も遅く現れた私たち人間は、どんなに複雑な人間関係であってもきちんと「力関係」を把握する能力が備わっている。では、動物はなぜ「力関係」を把握する必要があるのであろうか? それは、「力関係」を把握することで無益な、あるいは無駄な争いを避けるためである。群れで暮らすとはいえ、いつもいつも群れを構成する成員みんなに行き渡るだけの食料を確保できるわけではない。食べなければ生きてゆけないのだから群れの中でも食料をめぐる「争い」が始まるのは当然のことだ。だが、食料が少ない時にいちいち群れの構成員全員が「争い」をして食料を奪い合っていたのでは、たまったものではない。食料の取り合いで群れの構成員がどんどん傷つき死んでいったのでは、群れで暮らす意味もなくなり、群れで狩りをすることさえできなくなってしまう。だから、群れで暮らす動物はたった一度の「争い」で「力関係」を決めてしまうと、その後は「力」の順位の高いものから順番に「有利なルール」を獲得して、「有利なルール」において生きてゆくことができるという「習性」を身につけたのだ。そして人間は、たった一度の争いをも避けるために、「力関係」を把握する能力を身につけたし、「力関係」を判断し安いように「位階」や「役職」というものを考案したのである。
 
 みなさん、「争い」と「ルール」の関係を理解していただけたであろうか? 人間はただ争ったり、競争したりしているわけではないのである。「有利なルール」を勝ち取るために争っているのである。
 人間のこの本質的な「争い」はスポーツやゲームとは違う。スポーツやゲームなら、一回切りの勝敗でケリがついてその結果賞金なりメダルなりを手に入れたりするだけだ。その後、勝った方がずっと有利な戦いを進められるというわけではない。だが、人の「争い」には「ルール」がかかっている。その後ずっと継続される「ルール」がかかっているのだ。国家間での戦争は「宣戦布告」に始まり、武力を使って戦って、「講和条約」の締結という「ルール」で終わる。「講和条約」とは勝者にとって有利なルールを敗者に守ることを命じる約束のことである。おかしいと思わないか? 戦争であれ競争であれ、勝負に負けたらなぜ自分たちに不利なルールなのに人は一生懸命守ろうとするのであろうか。 私たちの国家も敗戦国であるが、なぜ誰も疑うこともしないで、戦勝国の命令には従わなくてはならないと(自分から)思っているのだろう? みなさんもそうだ。「敗者が勝者の言う事を聞くというのは当たり前だ!」と思っているのではないか。上司の言うことを聞くというのもまた、当たり前のように思ってはいないか? なぜそれが当たり前なのだろう? 負けたら押し付けられるのは「不利なルール」なのに、なぜそれを守り続けることを当たり前のようにするのであろう。これは「習性」なのである。無駄な戦いを避けるために、一度「力関係」が決定したら、勝者は「有利なルール」の下に生きてゆけることを許すことで、繰り返される争いを一度で終わらせるために身につけた動物の「習性」なのである。

 「ちょっと待ったァ! と言うことは、あんたが「王」の方法とかなんとか言ってきた「力」の多寡による「歪んだルール」の押しつけは、本来動物に備わった習性というわけだから、どうしようもないんじゃないのか! それが習性だとしたら、5000年どころか、何百万年、いや何億年も続いていることになるぞ!」
 
ごもっとも。実は「王」の方法の起源は、私たち人間も動物として持っている「習性」の中にあって、人の誰もが無意識のうちに行うことなのだ。
 やっかいだ! ワイルドすぎる! ワイルドすぎるから、本当はこのことを書かないで済まないかと考えていた。でもまぁ、私は根が正直だから、全く気が進まないのだが書いたわけなのだ。
 なぜ、そんな「習性」を持つことがやっかいなのかって? 別に構わないのではないかって?一度の争いで雌雄が決し、それ以降は「ルール」によってその関係が維持されて安定が続くというのであれば、別に勝者と敗者の間のルールが「歪んだルール」であっても、それはそれでいいのではないかって。

 そうかもしれないな。まぁ、100年に一度かそれぐらいに一度の間隔で、国家間で「力関係」をかけた争いが起こるくらいなら構わないのかもしれない。まぁ、その時は大勢の人が傷ついたり死んだりするが、それもまたそれでいいのかもしれない。力を持たない国や地域の人がずっと「不利なルール」を押し付けられ続けていて、子供も大人も栄養失調になってバタバタと倒れていても、まぁ、それはそれでいいことかもしれない。「腕力」を持たない女性がずっと、男達に「不利なルール」を押し付けられ続けていて、奴隷同然に扱われていたり、吐き気がするほど最悪の命令に従わされていても、それはそれでいいのかもしれない。学力や能力が劣るからといって、あるいは「財力」や「権力」や「地位」を持たないからといって大勢の人が「不利なルール」を押し付けられ続けていて、時と共に「格差」が広がって、もはや人間らしく生きてゆくことさえもままならなくなっても、それはそれでいいのかもしれない。どこへ行っても「力関係」を推し図られて誰彼なしに「不利なルール」を押し付けられることが嫌になった人が引きこもりになっても、それはそれでいいのかもしれない。主人の言うことを後生大事に守り続けて、安い賃金で働かせられ続け最後の最後に「用済みだ」の一言で仕事を奪われても、まぁ、それはそれでいいのかもしれない。まぁ、それはそれでいいのかもしれないなぁ。

 私の中では「野生」はイエス、「理性」はノーと言っているのだが、どうしようか。「理性」に従うか、「野生」のままでいるか。「神様」にでも相談してみようか。無神論者の相談を「神様」は聞いてくれるだろうか。
 まぁ、結論を出す前に少し寄り道することにしよう。それは、人間の全てが持っている「理性」について、「理性」とは何で、それはどのように働くか、「理性」の本質とメカニズムについて少しだけ理解してもらおうと思う。
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