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 V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 11. 「争い」と「ルール」の関係について(2)
 C共和国の成立
  「王」が現れてからというもの、「王」によって、そして「王」の狡猾な手口によって作り上げられた「神」によって、人は、ずっと「歪んだルール」を押し付けられ続けてきた。多くの国家が他国と覇権を争い、国内では「王」の座をめぐって多くの権力者が争うことで、大勢の人々が「争い」の渦に巻き込まれ、大勢の人々が想像を絶する痛みと苦しみと悲しみを味わったが、結局、この構図は全く変わることがなかった。どの国家が覇権を握ろうとも、誰が「王」になろうとも、「歪んだルール」は人々を苦しめ続けたのである。だがどの「王」にも、ひとつだけ自分ではどうしようもならないことがあった。それは「力」で簒奪したものでも、それを維持するには「ルール」が必要であるということであった。有形無形を問わず、「一貫性」を「維持」することができるのは「ルール」だけなのだ。
 「戦争」は国家が兵士に「無法」を許すことで行えることだ。だが、「王」といえども、そんな「無法」を兵士に許すのは「戦争」をしているあいだ「敵国」に対してだけであって、「戦争」が終わって敵国の領土を制圧し、敵国民が服従して自国の民となれば、兵士やそれまでの自国民も、みんなが「ルール」を遵守してくれないことにはそれを維持することをできないのだ。そこで、「王」は「法」による国家の統治を進めたのである。「律令政治」が始まり、各地に文字によって書かれた「条文法」が制定された。だが、いかに立派な「法」が出来上がっても、それに従う人々がいなければ何の意味もない。だから、「王」が作った「法」の中には妥当なルールもたくさんあって、見かけだけは良く出来た「法」も多いから、人々は法そのものには異議を唱えずに従ったのかも知れない。だが、「王」の作った「法」には「ルール」にとってはあまり好ましくないものがたくさん付随していた。その好ましくないものこそが「特権」と言うものである。「特権」とは「ルール」を順守しなくて良いことを「ルール」によって許されることであり、また異なる「ルール」を適用することを「ルール」によって許されることでもある。こうして「王」自身を含む「特権階級」というものが生まれたのである。
 さて、「王」が君臨する王国は「法」の整った強大なものとなった。王国は「王」を中心にした「特権階級」によって支配されている。とはいえ、「王」がいかに栄華を誇っても、ほとんどの「王」は安心して眠ることさえままならない。「力」を背景にして人々に「歪んだルール」を押し付けて、反抗するものに対して武力による弾圧や治安のための警察力の増大を図っても、そもそも人は自由なのだから、予防的に防ぐには限界がある。どこかの誰かが「歪んだルール」に反感を持ち、不正に耐え兼ねて国家の転覆を図ったり、「王」に嫉妬し、「王」に憧憬し、「王」の力そのものを手に入れようと暗殺や謀略を企てたら、その全てを防ぐことはできない。だから、ほとんどの王国は栄華を極めてもあっという間に滅びてしまうのである。また「褒美」という「エサ」を使って、「歪んだルール」を国民に押し付けた国家は、それに比べれば少しは長く持ちこたえるのかもしれない。とはいえ、そのためには、「褒美」となるものを次々に獲得してゆかなくてはならない。「褒美」として分け与える「権力」なり「財力」なりも尽きてしまえば、人々が言うことを聞いてくれなくなるからだ。それゆえ「王」は常に領土の拡大と財力の確保を必然的に強いられる。領土の拡大を必然とする国家を「帝国」と呼ぶ。こうして「帝国主義」は「アフリカ」や「アジア」や「南米」を植民地化していったのである。全ては「歪んだルール」を維持するためであり、「歪んだルール」を強いるのは、「王」とその周りにいるわずかな「特権階級」の人たちであった。富国と言いながら国民が豊かになることなどなく、強兵と言いながら戦争に駆り出されて死んでゆくのは名も無き普通の人たちであり、決して「王」や「権力者」でもなければ、その子息や親類縁者ではなかったのだ。

 さて、「力」を背景に「歪んだルール」を押し付ける「王」の代わりに、誰かやあるいは限られた人間だけに一方的に有利なルールである「歪んだルール」を作らせないようにするため、人間は「古代ギリシャ」以来の方法に新しい工夫を凝らした社会制度を作った。「共和国」と呼ばれるものである。多くの国では、「王」の支配する「帝国」から「共和国」への以降は「市民革命」という「歪んだルール」を押し付けられ続けてきた人々による武装蜂起によるものであった。遥か昔のとある銀河でも、シス卿率いる「帝国軍」はジェダイ率いる「共和国軍」と戦闘を繰り広げ、結局敗北したことになっているから、この変遷は宇宙史では起こるべくして起こることなのであろう。そして
「共和国」の原理原則は「みんなが従うべきルールはみんなで決める」というものだ。この共和国の成立によって、私たち人間はようやく「妥当なルール」のもとに生きることの足がかりを作ることができた。有史以来4700年余りにして、初めて訪れた妥当なルールによる社会の構築であった。もちろん、共和国が成立したからと言って、すべてのことがうまく運んだわけでははない。共和国内のルールが妥当なものになるまでには、各国ともに相当長い時間を要した。特に、共和国内にある「特権」を少なくしたりなくしたりすることは大変なことであったようだ。「特権」によって「歪んだルール」を維持してきた人達には「力」があるから、その「力」に誘惑されて「特権階級」に追従する人もたくさんいたであろう。共和国の成立から300年あまりたった今でさえも、少なからず残っている「特権」の排除にはどこの国も相当苦労しているようだ。他方、共和国の成立とともに、私たちは「妥当なルール」で擁護すべきとても大切なものを作り出した。それが「人権」と言われるもので、「なんぴとも、人として生まれたからには、人らしく生きる権利がある。」というものである。「人権」という言葉が生まれたのは、「王」が支配する時代に多くの人が人らしく扱われることがない「奴隷」として過ごしたことに起因するものであろう。そういうことが繰り返されることがないように、共和国では、真っ先にこの権利が生まれ、ルールによって擁護されるようになったのである。だが、この権利は現在でも半数以上の国家ではないがしろにされているであろうし、人権の擁護を重要に思う国家であっても、様々な揉め事のたねではある。共和国には社会のルール作りの専門家である政治家という人たちが出現して、毎日毎晩ルール作りに励んできたし、今も懲りもせずに励んでいる。各国の政治家たちは、自分たちが長年従ってきたその土地独自の人々のルールの束である「文化」を、国家体制の中に取り込んできたから、同じ共和国でも各国ごとに随分と差があって個性的ではある。とはいえ、今の共和国を大きく分ければ、二つの種類があるようだ。一つは国家という全体が持つべき「力」に関しては、個人や特定の人間に集中することがないように「ルール」によって制限を設けるが、全く個人的な「力」についてはなるべく「制限」を設けないでおこうとするもので、これは「自由主義」と呼ばれている。全く個人的な力の中に「財力」が含まれたものは「資本主義」と呼ばれている。一方、個人の「財力」を含めて、個人的な「力」に対しても積極的に制限を設けるものを「社会主義」と呼んでいる。この二つの「ルール」の間で、「世界大戦」後に「冷戦」と呼ばれる緊迫した状態が長く続いたが、結局今の共和国は「社会主義的に修正された自由主義」と「自由主義的に修正された社会主義」の国家が大半を占めている。ただし、「共和国」の仮面をかぶった「独裁国家」も「特権階級国家」とも言うべきものも「軍事国家」も多数あることは事実で、このような国家はその国内と周辺諸国のあいだで、紛争の種をいつも抱えているようである。とは言え、現在ある全ての国家が「法治国家」であることは間違いない。宇宙は「法治フィールド」なのだから、ルールによってしか「全体」を構築したり「維持」することはできないので、「国民」と「領土」という部分を持つ全体である国家は全て「法治国家」である。独裁国家は、独裁者の気まぐれな命令でさえ「法」になるような国であり、国民は、どんなルールであっても、それが「法」だと言われれば従わせられる。共和国では、ルールが「法」となるには国民から選ばれた代議士と呼ばれる人たちの審議を経てからでないと「法」となることはない分、「歪んだルール」は構築されにくい。とはいえ、国内に政情不安が起こったり、国家間に戦争というものが起これば、たちどころに歪んだルールが制定されることもある。「国家総動員法」や「ニュルンベルグ法」などがそれらに当たる。
 今の世界の国家の中で、平和で安定的な繁栄を築いているのは、概ね「妥当なルール」によって国民を統治している「共和国」である。「ルール」の歪みが激しく、その歪みを維持するために「強権力」を持ち続けざるを得ない国家というのは、繁栄にはほど遠いか、あるいは国内の政情が不安定で紛争の絶え間がないかのどちらかであろう。とはいえ、国家の繁栄と安定が一体何によってもたらされているかということに関しては、多くの人が誤解していて、それが「力」の獲得によるものではなく「妥当なルール」の敷設によるものだということには気づいていないようでである。共和国のその後の経過については、近代史を紐解けばすぐに了承されるであろうから、興味がわいたのであればウィキペディアで一度お調べになってみたらいい。

 ここいらでみなさんにはまた少し考えてみて欲しいことがある。
 小雪さんという美しい女性を娶った松山ケンイチ君主演の大河ドラマ「平家物語」が放映中ということもあって、みなさんには琵琶法師が語った「平家物語」の冒頭部分について考えてもらいたいのだ。

 思考開始:祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
        おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の
        前の塵に同じ。


 
「盛者必衰の理」とは「盛者必衰」が「ルール」であるということだ。だから、「力」を持った人間はみんな必ず衰退するというのが、ルールだと琵琶法師は述べている。それではなぜ、「盛者必衰」が「ルール」なのか? その理由を考えて欲しいのである。みなさんの周りにも「権力」や「財力」を人より多くお持ちの方はたくさんおられるであろう。基本的には「先進国」と呼ばれる国家に住んでいる私たちはみんな、世界のほかの国の人たちに比べて「経済力」や「財力」や、あるいは個人的にも高等教育によって育まれたさまざまな「知力」などの「能力」を多く持っているだろうから、私たち全員が「力」のある「盛者」であって、そういう私たちもいつかは衰退する運命にあると琵琶法師は述べているのだ。だから、これは自分自身のことでもあるのだから、是非とも考えてみてほしい

 まずは、本当に「盛者必衰」がルールなのかどうか検証してみても良いが、「平家物語の」冒頭では、上述の言葉のあとに滅んだ国家や権力者たちの例を挙げている。まずは中国の王朝の例を挙げ「秦の趙高、漢の王莽、梁の朱?、唐の禄山....」と語り、続いて、私たちの国で起きたことも例に挙げて「承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼....」と語り、そして「平清盛」の話へと続いてゆくわけだ。歴史を学んだ人なら洋の東西を問わず、多くの「大国」も「帝国」もみんな滅んできたことを知っているであろう。そして国家の中では、多くの「権力者」が血で血を洗う権力闘争を繰り広げて、結局誰も残らなかったことを知っているだろう。平家物語は平清盛が築いた「平家にあらざるものは人にあらず」とまで言わしめた権勢が、瞬く間に崩れ去って平家一門が滅亡してゆく物語だが、平家を滅ぼした源氏は足利氏に滅ぼされ、足利氏も織田信長に滅ぼされている。どこの国の歴史もこのようなことを繰り返してきたのだから、まさにそれはルールであるといえる。

 みなさんの声が聞こえてきそうだ。「そりゃぁ、あんた、あんたが何度も書いている「歪んだルール」とやらを人に押し付けても、人は本来「自由」なのだから、そうそううまく人が黙っていてくれるわけがないわな。だから早晩そういう体制は滅びることになる、と言わせたいわけだろ!」そうそう、みなさん良くお分かりだ。だが、そのものわかりの良さでもって、もう一つおまけに考えて欲しいことがあるのだ。

 思考開始:「力」を維持するルールについて考える。

 ルールは本来、それがなんであれ何かを「維持する」ためには絶対に欠かせないものだ。この宇宙の中に「ルール」がないのに維持されているものは何一つとしてない。だから「権力」を維持する方法というのも必然的にあるはずだし、「財力」や「経済力」あるいは人の「能力」でさえ、それを維持する方法というものがなければならない。だから、考えて欲しいのである。「経済大国」がずっと「経済大国」でいられる方法というものを、「一流企業」がずっと「一流企業」でいられる方法というものを、そしてあなた自身がずっと能力に溢れ、金持ちでいられる方法というものをだ。
 
 まさか、「マーフィーの法則」なんて答えないでいただきたい。この本にしても、その他の成功の秘訣を書いた本は、「成功」を獲得するためのルールではあっても、それを維持するためのルールではない。獲得するためのルールなら、たった一回こっきりだが、維持するためのルールはルールそのものをずっと継続して行わなければならないのだから、同じものではないはずだ。そして、当たり前だが、これらのルールはその精度が余り芳しくはない。だからルールに従い、ルールによって指示されたことを同じようにやっても成功する人の確率はごくごく僅かであるのは明白だ。

 
結論から言うと、「ない」。

 この宇宙には「力」を維持し続けるためにあるルールだけがないのである。それどころか、その逆のルールならある。力を分散させて、力にあるルールの解除を行い、秩序あるものを無秩序へと導くためのルールならある。「エントロピーの法則」というやつだ。元々、宇宙にある「力」の根源はとても小さな部分であるものにあって、それを集めることでしか大きな「力」にはならないことは前にも述べた。だから、人間のうちの誰かがどのような方法でか「力」を集めて大きなものとしても、その「力」の源がその人自身のうちにあることは絶対になく、それはやはり「一人一人」の人間の内にある「力」を集めたものであることは間違いないのである。だから、私たちの国の企業家が他国に工場を移し、安い賃金で人を働かせてそれで獲得した「財力」があっても、その「力」の源は他国の工場で働いていた一人一人の工員さんの「力」なのである。だから、ビル・ゲイツの資産の中には、もはや10台近くのウィンドウズマシンを買った貧乏なこの私のお金が入っているし、スティーブ・ジョブズの資産の中には、ウィンドウズマシンを買う以前に、バカ高いマッキントッシュマシンを4台も買った貧乏なこの私のお金も入っているのである。みなさんは、大いに勘違いをしているから、未だに偉大なピラミッドを作ったのは、クフ王なりカウラー王だと思っている。パナソニックを作ったのは松下幸之助であり、ホンダを作ったのは本田宗一郎だと思っている。だが、私は、偉大なピラミッドを作ったのは、エジプト国民であり、エジプトに貢ぎ物を捧げた全ての諸国民であり、パナソニックを作り維持してきたのはそこで働く全ての従業員の方とその製品を買った消費者だと思っている。ホンダを作り維持してきたのもホンダに務める全ての従業員の方とホンダの製品を愛して買った全ての消費者だと思っている。

 
この宇宙にある「力」の全てはとても小さなものにその根源がある。それを集める方法というものもある。星が重力という力にある「万有引力の法則」というルールで「力」を集め、自分自身を構築するように。だが、「集めた力」をそのまま維持するというルールはない。こういう方法でしか集められない「力」なので、それを一つところに集中して維持するという方法は「ない」し、「力」は元あったとても小さな部分であるもののところへ帰ろうとするものなのである。
 もし仮に、「力」が比較的長期にわたって限定された人や国家に維持されているとすれば、それを維持しているのは「歪んだルール」であってそれは、「力」によって人々に押し付けられている「ルール」である。「力」がほんのわずかでも小さくなるようなことがあったらそれらはたちまち瓦解するであろうし、何よりも「歪んだルール」「妥当でないルール」で維持され続けるものなど、この世にはないのだから、それらはまさに「必衰」であり「必滅」である。だから、そういうものの姿はあくまで「かりそめ」であって、そんなものを頼りにしても仕方がないのだ。
 
 D現代社会

 私たちは、21世紀の現代社会の中に生きている。とりあえず、私たちの国では、ここ半世紀以上「戦争」のない平和な時代が続いている。先進国と呼ばれる国家の多くでも武力の行使による「争い」はなくなったが、今度はどういうわけか常に「競争」というものにさらされることになってしまった。国家間でも、民族間でも、地方間でも、企業間でも、個人間でもいたるところに「競争」はあり、好むと好まざるとにかかわらずその渦にはみんなが巻き込まれるようだ。競争の結果誰でもが手に入れたいと思っているのは、やはり「権力」や「財力」といった「力」であって、みんなその獲得に躍起になっているのである。長い内戦の末にやっと平和になった国でさえも、今度は子供に「力」を獲得させるべく「受験戦争」が勃発して、親たちはなりふりかまわず子供たちを塾に通わせて戦闘の準備をさせている。人はよほど「力」がお好きと見えて、大勢の人が、人より多くのお金やモノを手に入れ、人より高い地位や名誉を手に入れることだけを人生の目的にして生きるようである。大勢の人々にとってこの世界に価値を持つのは「力」だけのようだ。だが、「力」の獲得は誰もがうまくゆくわけではないし、「力」の維持は決して長くは続かない。だから、権力者はめまぐるしく入れ替わるし、大企業もそうでない企業もあっという間に倒産する。大資本家も一瞬にしてその財を失うし、経済大国と呼ばれ続けることも長くは続かないのである。だが、誰もが、自分の会社が倒産し、経済大国であった国が貧小国に転落することなどとは夢にも思ってはいない。今から1000年も前の先達によって「盛者必衰」が「理(ことわり)=ルール」であって、誰もそのルールからは逃れられないのだが、「ルール」そのものを無視する人々には先達の金言もその耳には届かないらしい。

 祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
     おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
         偏に風の前の塵に同じ。

  (この星に生きる全ての人には肝に銘じてほしい言葉ではあるが、まぁ、今はちょっとむつかしいなぁ)

 「競争」することそれ自体を人間全員に強いる社会、それが今の現代社会である。そして、誰でもが競争に参加することで、「勝者」と「敗者」に分けられたり「順位」がついたりする。「競争」といえども「争い」には変わりないのだから、勝敗がつくのは避けられない。そして、獲得した「順位」に応じて「力」が配分されるような仕組みになっている。人間一人一人には個性があって、その能力にも差があるのだから、この方法は一見合理的な方法であるようにも思える。だが、「力」の大小で「有利なルール」「歪んだルール」の押し付け合いが必然的に生じてしまう。先に書いたように、「力」を維持し続けるルールというのは、この宇宙にはない。そして「歪んだルール」で維持できるものも、この宇宙には何一つないのだから、みなさんの地位も資産も何もかも、「力」と呼べるものの一切はいつかは失うことになる。これは原理的なことなので、誰も回避することはできない。「盛者必衰」はルールなのである。だからみなさんが、今「力」を持っているがゆえに憧れている人も国も地域も民族もみんな衰退するので、まぁ、できるだけ長生きして実際にあなた自身の目で見てみるのも面白いと思う。入れ替わり立ち代り、いろんな人が「権力者」や「セレブ」と呼ばれ世間を賑わせ、いろんな国家や民族が栄華を極めるであろうが、それらは全て長続きはしない。全て「必衰」だから衰退する様子なら100%確実に見れる。

 ここいらで、ルソー先生のように考え始めたことの結論に至ることにしよう。問題とは今生きているあらかたの人間が「力」を尊重していて、「ルール」については屁ほども思っていないのはどんな事態から始まったのか? ということであった。
人間はおよそ5000年ものあいだ、「争い」と「競争」に明け暮れてきたし、今もなおそれは続いている。人間の多くが今もそうしているのは、他でもない人より多くの「力」を獲得すること、それだけが我が身を安全にそして安定して維持する唯一の、そして最良の方法であると思い込んできたからである。だが、「力」をいくら獲得してもそのような成果は得られない。それが何であっても「維持」することを可能にしてくれるのは「ルール」だけであって、決して「力」ではない。そして「物質」ではない「生き物」である人は絶対に「力」では制限できない。人を制限して「秩序ある状態」にするものはただ一つ「ルール」だけなのである。あなた自身に安定や安全を与えるのは、「あなた以外の人がルールを守ってくれること」によってのみなのだ。そしてまた、「自らが妥当なルールを遵守する」ことによってのみ、他者を自分と同じように守って行けるのである。だが、生きている人のほとんどが「力」の多寡を背景にして、「歪んだルール」を人に押し付けてきた。「ルールを尊重する」よりも「力の獲得」を目的として人が生きているならば、お互いに絶対に「ルールを尊重する」ことはないのである。「ルール」を尊重しようにも、「歪んだルール」など誰が尊重するであろう。ならば、全ての人は達成できない目標を持って生きていることになる。これは人にとっては最大のそして最悪の誤解なのだ。その誤解を解かないことには、先進国であれ、後進国であれ、あるいは貧しい人であれ、豊かな人であれ、権力者であれ、そんなものを全く持たない人であれ、全ての人がこれまでの5000年と変わりない人生を歩まなければならず、「力」の獲得競争の「不毛」と「徒労」の中にどっぷりと浸かったままである。
 人の多くが5000年ものあいだに、すっかり「王」の方法を身につけてしまった。「力」を獲得すればそのことで「自分に一方的に有利なルール」でもって他者との関係を結ぶことができる。そう考えて人はより大きな「力」を獲得しようと思うのである。そしてその「力」でもって、人にルールを押し付ければ、人に制限を与えることができると思っているのだ。これは今生きている人の全てに例外なく広まった根深いルールなのである。
                                            
(次項に続く)
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