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 V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 8. 「ルール」について熟考する(7)
D「ルール」が「制限」するものの正体について 

 「人間は自由なものとして生まれている。しかもいたるところで鉄鎖につながれている。」とルソー先生はおっしゃった。確かに世界はルールだらけで、私もみなさんも実に多くのルールによって制限を受けているのは事実である。物理法則、化学法則、生物法則、動物としての習性や本能、社会のルールなどなど、数え上げたらキリがないほど大量のルールによって制限を受けていることは間違いない。だが、ルソー先生は、「人間は自由なものとして生まれている。」とおっしゃっているし、カント先生も「道徳というルールが必要なのは、人間が自由なものとして生まれているからだ」とおっしゃっている。つまりお二人は、私たちが本来「自由」だからこそ、ルールによって「制限」されなくてはならないとおっしゃっているのだ。何か変だとはおもわないだろうか? 「自由」なものとして生まれてきたものが、「自由」だからこそ「制限」されなくてはならないって言うのは。じゃぁ、元々「自由」でないものは、制限を受けなくても良いってことか?
 さて、物理学について述べた前章の中で、私は、素粒子というものは「観測」する以前は「波」として振舞っているのだと述べた。その波が「観測」することで一点に収縮するのだが、素粒子が「波」であるあいだは何の現象も引き起こさないとも述べた。素粒子は「他者」とのあいだにあるルールで制限されない限り、現象を引き起こせないのだとも述べた。従って「他者とのあいだにあるルールで制限を受けないのであれば、宇宙の存在の本来の姿は波である」のだが、これが「自由」の正体なのか? つまり、私たち人間にせよ生き物にせよ、たかがモノにせよ、波であることが、この宇宙にあるすべての存在の本来の姿であり、波のように振る舞えることが「自由」の正体なのだろうか? もし、波のように振る舞えることが「自由」の正体だとすると、波は、あそこにもここにも同時に存在することができ、その上時間経過とともにどこにでも、全方向に広がってゆくし、障害物があっても波には回折という性質があって、障害物の裏側にまで回り込むこともできる。波の持つ空間的な自由もさることながら、時間的にも波の自由は途方もない。光の波なら、光速だから時間は止まったままだ。つまり「永遠」の時間がある。とにかく波の持つ「自由」というものはとんでもない「自由」であることは間違いない。それが、私たち人間があこがれる「自由」の正体であるなら、つまり、それが「自由」の本来の姿であって、私たち人間を含めたこの宇宙のすべての存在の「生まれながらの姿」なのだとしたら、そんなものを制限するには大量のルールが必要になるのも納得がいくというものだ。そして「自由」を望むことは、「生まれながらの姿」への回帰を望むことであり、それが人の持つ「自由」へのあこがれの原因なのかもしれない。
 この項では、何でこんな話をするかというと、「ルール」が制限するものの正体について知っておいて欲しいからだ。
 
宇宙にある全ての存在は本来「自由」である。そして「自由」の正体は「波のように振る舞えること」だと、私は考える。その「自由」に「制限」を加えて、「秩序」あるものにするのが「ルール」である。(ただし、私見にしか過ぎず、検証もできないのだが)

 おそらく、あなたも私も、本来は「波」のようにどこにでも在ることができるのだと思う。それぐらい「自由」なのだと思う。

 少し、現実的な場所へと視点を移して考えてみよう。人間は自分以外の人とのあいだに関係性がある。関係性があるところには必ずルールがあってあなたを制限する。自分の上司には敬語で話すというルールがあり、その命令には従うべしというルールがある。そのルールによってあなたの行為は制限を受ける。愛する人にはやさしくするというルールがある。両親は大切にするというルールがあり、友人の誘いは断らないというルールがあり、ペットの世話は自分でするというルールがある。それらのルールによってあなたの行為は制限を受ける。人でも生き物でもモノでもあなたと関わるもの全てに対して、あなたはその「関係性」の中にあるルールによってあなたの行為は制限されている。でも、上司と敬語で話すことも愛する人にやさしくすることも、時にはできないような事態にもなる。体調が悪いときや、気分が落ち込んだ時など、そんなルールには従いたくはないと思うだろう。その時、あなたはそのようなルールによる「制限」から「解放」されたいと思うはずだ。そしてあなたは「一人になれる時空(一人になれる時間と場所という意味だ)」に移動する。もしそんな時空があれば、あなたがその時空にいるあいだはあなたはルールによる制限を受けないで、「関係性」の中にあるルールからは解放されて「自由」になれる。まぁ「波」にはなれないけれども人間関係の中にある「ルール」からは解放されるだろう。ルールから解放されたあなたは、「自由」に振る舞える。音楽を聴くのもいい、お酒を飲むのもいい、綾波レイのフィギュアで遊ぶのもいい、物思いに耽るのもいいだろう。とにかくあなたは制限を受けないのだから、受けない分だけの「自由」は獲得して味わえるはずだ。とは言え、あなたが一人になることで解放されるルールは「人間関係」のあいだにあるルールだけで、他のルールには依然として制限を受けている。「万有引力の法則」をはじめとしたすべての物理法則と、人間に適応するすべての化学法則や生物法則と、動物としての人間が持つ習性や本能などのルールと、そして(一人の時空にいるときにも守らなければならない)社会のルールには従わなくてはならない。一人になれたからからといって、あなたが解放されたのは「人間関係」の中にあるルールだけであって、まだまだとんでもない数のルールによってあなたの「自由」は制限を受けている。その制限の全てを、「物理法則」による制限までもがほとんどなくなった状態、そういう状態を想像して欲しいと思う。それが「波」のように振る舞えるという状態なのだと、私は思うのである。つまり、ルールによる制限をどんどん引っぱがしてゆくと、最後にはシュレディンガー方程式とマックスウェル方程式という「波動方程式」に従うような「自分」だけが残ると言うわけだ。
 
 少し、哲学的な話になってしまったかもしれない。だが、「ルール」が制限するものの正体が「自由」であるのを知ることは、大切なことなのだ。ここでは詳しくは話さないが、実は「宇宙の進化」の目的が「自由の獲得」にあるからだ。宇宙は「ルール」だらけで「自由」を「制限」するもので溢れているというのに、なぜその目指すところが「自由」なのかと思われるだろうが、どうやらそうらしいのだ。
 そして、みなさんはおそらく

 
自分自身がおそろしいほど「自由」であることをご存知ない。

 人間は決してこの宇宙で特別な存在ではない。宇宙は特別を嫌っているので、宇宙のどこにも特別な存在がいることはない。それはそうなのだが、この地球という星に生きる生物の中で、突出した「理性」を持つ人間は、突出した「自由」、おそろしいほどの「自由」を持っていることは事実なのだ。みなさんは、チンパンジーに「社会主義者」と「資本主義者」がいるなんて話を聞いたことがあるだろうか? また、植物食のゴリラが突然、肉を食べだした、なんて話はどうだろう、聞いたことがあるかな。ルソー先生は穀物倉庫にいる猫の話を持ち出して、良く働く猫はねずみをたくさん獲りすぎて、ついにはねずみが全部いなくなって米だわらの上で餓死すると書いておられる。例えどんなに空腹でも「食性」というルールを変えることができないから、猫は米を目の前にして餓死してしまうのだ。人間以外の生物は、今から急に「ルール」を変えることなんて全くできない。「ルール」を選ぶこともできない。「ルール」を作ることもできない。彼らにできることは、数百万年か数千万年、あるいはそれ以上の長期にわたって繰り返してきた「ルール」を、また明日も繰り返すだけなのだ。その点、人間は今から急に「ルール」を変えることができる。今から急に今までの「ルール」を破ることもできるし、今から急に「ルール」を新しく作ることもできるのだ。また人間の突出した「理性」は自然の中に潜んでいる「ルール」を簡単に暴き出してしまう。そして、人間は自然の「ルール」から学び、自然の「ルール」を利用して、新しい「ルール」を作って、その「ルール」をカタチにする(科学と技術のことだ)。また「ルール」の持つ「未来予測性」を利用して、人間に不利益なことの多く、例えば災害や病気を克服したりもする。地球上の全ての存在をひとつにまとめ上げる唯一のルールである万有引力の法則というルールによって、地表面に貼り付けられていることさえも嫌って、人間は飛行機や宇宙船を作って大空へ、そして宇宙へと飛び出してゆく。すごいだろう!「理性」を持って「ルール」そのものを操れる人間の「自由」というものは!宇宙は法治フィールだ!(何度も言うな) 法治フィールドであるこの宇宙で、「ルール」が大切なこの宇宙で、その大切なものである「ルール」そのものを扱える能力を有していること、そのことがいかに素晴らしいことで、それによって得られる「自由」がどんなに大きなものかは、人間とほかの生き物たちを比べてもらえばすぐにわかるだろう。 
 「やる気があれば、何でもできる!」とアントニオ猪木さんはおっしゃる。「やる気があれば、何でもできる」ほど、人の誰もが「自由」である。やる気があれば、数兆円の資産を持つことだってできる。やる気があれば往復7年余りもかかる宇宙旅行を小さな衛生にさせて小惑星からサンプルを持ち帰ることもできる。そして、やる気があれば、600万人を毒殺することだってできるし、たった一発で20万人を瞬時に殺してしまう爆弾を作って落とすこともできるのである。「自由」は素晴らしい、そして「自由」は恐ろしいのである。いや、正確に言うと、『人間は「素晴らしいほど大きな自由」を持ち「恐ろしいほど大きな自由」を持っている。』となる。神父さんは人間によって引き起こされた悲惨な出来事が起こるたびにこうおっしゃる。「神は、何故、人に自由などというものをお与えになったのだろうか?」と。

 「自由」について書く事の意味をご理解いただけたであろうか? 70億の人間の全てが、みなさんも当然「素晴らしいほど大きな自由」と「恐ろしいほど大きな自由」を持っているのである。このことに気づいていただかないと、次の問題がいかに大きな問題かということがわかってもらえない。だから、少々哲学的な話にはなったが「自由」について書いたわけだ。
 さて、いよいよ大問題が控えている。この問題を解決しない限り、私たちの世界ではずっと神父さんは嘆き続けることになる。この問題は、たった一人の例外もない世界に生きるすべての人間の問題であるのだ。

  
「自由」を制限している「ルール」そのものを扱える人間を、「制限」するにはどうやったらいいだろうか?  

 いよいよ佳境に入ってきたのだが、こんな全く人間的な問題であるのに、その答えを私に教えてくれたのは、何と「物理学」なのだ。
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