V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 6. 「ルール」について熟考する(5)
 E「ルール」と「関係性」について 

 この項では、ちょっとおもしろいことを書く。当たり前のことに潜む実に面白いことについてだ。
 「ちょっとそこの社長さん、遊んでいかな〜い」なんて呼び込みのオネェちゃんに声をかけられると、オジサンたちは鼻の下を伸ばして、ぼったくられるのも知らずについついいかがわしい店の中に入っていくものだ。「社長さん」「大将」なんて呼び名は、実は「関係性」を表す言葉で、ほかの国の人はこういう「肩書き」で人を呼んだりはしないのである。なぜなら、自分にとっては「社長さん」でもなければ「大将」でもないからだ。こんなふうに人を呼ぶのは私たちの国だけ(?)の習慣だ。アメリカ人は上司のことを「ボス」と呼んだりもするが、それは本当に自分の上司である人だけだ。他社での地位がいくら高い人でも、自分が仕えてもいない人のことを「ボス」と呼んだりはしないし、上司でも普通は「名前」で呼ぶのが一般的だ。アメリカ政府の報道官は、私たちの国の首相のことを「プライムミニスター・野田」などと言ったりはしないで「ミスター・野田」と呼ぶ。でも私たちの国では報道官ではなく首相自らアメリカの大統領のことを「オバマ大統領」と呼ぶ。でも、野田さんにとっては、オバマさんは大統領でも何でもない。オバマさんを「大統領」と呼べるのはアメリカ国民だけだ。それならちゃんと「関係性」を表す言葉が事実と一致している。自分との「関係性」を表す言葉を平気で、人の呼称に使う習慣を持っているのは、私たちだけの習慣なのである。
 なぜこんなことを書いているのかというと「関係性」がとても大事だからだ。「関係性」が異なると「ルール」が異なる、そのことを理解してもらおうと思う。
 私たち人間には誰にも「名前」がある。それはこの世界にたったひとりの個性ある人間を表すたった一つの言葉である。その名前のついた人間は「関係性」を表す言葉でも呼ばれることがある。例えば、「総理」「大臣」「部長」「課長」「先輩」「後輩」「友達」「妻」「夫」「お父さん」「お母さん」「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」「先生」「師匠」「弟子」「生徒」などなど。でも、これらは本当なら実際にそういう関係にある人を指し示す言葉であって、他国ではそういう使われ方をしている。が、私たちの国では、全然そうではない。何かを教えている人に出逢えば、例え自分が何も教わっていなくてもみんな「先生」と呼ぶ。医師も弁護士も政治家も、自分が何のお世話になっていなくてもみんな「先生」と呼ぶ。だが、実は「関係性」はそんな安っぽいものではない。もっと、現実的で重要なことなのだ。何故なら「関係性」は「ルール」を伴っているからである。「関係性」が変われば「ルール」が変わる。「ルール」が変われば「関係性」が変わるのである。私たちの国民性は、勤勉であることであり、他国の人に比べると時間にルーズな人が少なかったり、約束は守ったり、言われたことは当たり前にこなしたりと、比較的「ルール」に厳格なことがあげられる。そのことは他国でも賞賛されているし、誇りに思うべきことかもしれない。(ただし、国民性などというものが国民ひとりひとりの「意志」を反映したものではないのは明らかだから、それは偶然獲得したものであって、偶然獲得したものを誇りにするのには抵抗があるが。)しかしながら、反省すべき国民性もある。それが、この「関係性」をおざなり(当座をつくろうこと。その場のがれにいいかげんに物事をするさま)だか、なおざり(余り注意を払わないさま。いい加減にするさま。)にすることだ。

 宇宙は法治フィールドだ。(もうええかげんにしてや、何回言うたらええんや!) だから「ルール」は大切である。だがしかし、「ルール」は「関係性」によって変化する。だから「関係性」も大事なのだ。
 まず、私たち人間以外の生き物について、それらが持つ世界との「関係性」と「ルール」についてお話する。私たち人間以外の生き物のうち、まず(普通の)「植物」は「光」と「二酸化炭素」と「水」と「土」の間の関係性しか持っていない。光と二酸化炭素と水と土の間の関係性しか持っていないということは、植物にはこれらのもののあいだにしかルールはないということだ。(あくまで一般的に言えばだが。)だから、植物は、光を求めるというルールと二酸化炭素を求めるというルールと水を求めるというルールと根を張って自分を固着させることができる土を求めるというルールしかない。だから、植物はいつも光のあるところへ二酸化炭素のあるところへ水のあるところへ土のあるところへと(自分自身は移動はできないから)種を飛ばして、そんな場所に落ちる確率が高くなる方向へ進化してきた。だから、植物にとっての世界は「光」「二酸化炭素」「水」「土」しかないのである。一方で動物は、捕食関係にあるものの間の関係性と生殖の際の雌雄の間の関係性しかない。動物は、他種(共食いという同種間の捕食もあるにはあるが)の間には食べる側か食べられる側かの関係性しかないのである。そして同種間では、雌雄の間の関係性と同性間の競合の関係性しかない。だから動物というのは、自分が食べる側の相手と出会ったら、狩りのルールに従うし、自分が食べられる側の相手と出会ったら、逃げたり隠れたり自己防衛のためのルールに従う。また、異性に出会ったら求愛行動のルールに従い同性に出会ったら競合のルールに従うのである。そして、動物の世界というのは、今述べた関係性だけで構成された世界だから、動物の世界には「天敵」と呼ばれる捕食者と、「エサ」と呼ばれる食物と「水」と、「異性」と「同性」ぐらいしかないのである。(群れを作ったり、社会性を持つ動物はもう少し広い世界を持っているだろう。)動物の世界には、これらと関わりのない他のもの一切がないに等しい。猫が米俵の上で餓死するのも、そもそも猫の世界の中に米俵は存在しないも同然だからなのである。植物にせよ動物にせよ人間以外の生き物は全て、自己を保存するために必要性のあるものとだけ「関係性」を確保して、そのものとの間にあるルールだけを遵守して生きていて、彼らの世界は「関係性」のあるものだけで構成された世界であり、「関係性」のないものは世界の中で「無い」に等しい。
 人間も動物なので、基本的にはこの事情は変わらないのだが、人間にとって世界との「関係性」は「任意」であり、どんなモノや人、あるいは生き物と「関係性」を持とうと思うかは本人次第だ本人が「関係性」があると思えば何らかの「ルール」に従うし、ないと思えば「ルール」なんてないから、どんな「ルール」にも従わない。それに人間は途中で「関係性」を変えて「ルール」を変えることもできるし、逆に途中で「ルール」を変えて「関係性」を変えることもできる。そして、人間もまた「関係性がある」(と自分で決めた)ものだけで構成された世界の中で生きていて、世界は確かに一つなのだが、人によってそれぞれの世界は異なっているのだ。 実例を上げて説明しよう。

 @あなたが、素敵な女性を街角で見かけてひつこくナンパしていると、彼女はかなり嫌がった。それを見てい
  た、老紳士が、「おやめなさい」とあなたに忠告するとあなたは必ずこう言うのである。「おっさん、関係あら
  へんやろ!」「関係性」がないなら、「ルール」がない。忠告に従うべき義理(正しいルールのことだ)もなけれ
  ば、文句を言われる筋合い(これも妥当なルールのことだ)もないというわけだ。
     「関係性」がなければ、「ルール」がない一例

 A・誰も見ていないと思って、スーパーのタイムセールで必死になって品物を漁っていたら、ご近所の奥さんが
   自分を見ていることに気づいて、急いで品のある行動に変えた。
  ・電車の中で、座席に腰掛けて化粧をしているおねぇちゃんが、車内にいたイケメンの男性に気づくと急に
   化粧をするのをやめて、開いていた脚を閉じた。そのイケメンはおねぇちゃんの知り合いであるようだ。
     「関係性」があることがわかると、「ルール」が生じる一例

 Bジブリのアニメ「思い出ぽろぽろ」のワンシーン。学級会で女子が、「給食での「お残し」を二つまで良かった
  ものを一つにしよう」と提案する。その理由は、「世界には食べ物に困っている人が大勢いるのに、「お残し」
  なんてしていいのか?」ということだった。
     「関係性」があることがわかると、自ら進んで妥当な「ルール」を作ってまで従おうとする一例

 C誰かが、「恋人」と結婚して、「恋人」が「妻」や「夫」に変わってしばらく経つと誰でもがこういう。「あなた、
  結婚して変わったわね。」と、下着姿ですっぴんの妻が言う。 「あなた、変わったわねやと、お前の方が
  無茶苦茶変わっとるがな。」 二人のどこがどう変わったかは知らないが、人が変わるというのは仮面ライダー
  のように変身するわけではないので、その行為のルールが変わったことに間違いない。
     「関係性」が変わると、「ルール」が変わる一例

 D・年下だと思って「タメ口」で話していたが、よく聞くと年上であることがわかり、「言葉遣い」というルールを
   急に変える。
   ・ただのおっさんだと思っていたら、取り引き先のお偉いさんであることがわかり、「態度」のルールを急に
   変える。
   ・Tシャツに短パンとゴムゾウリで高級家具店へ言ったら、店員のオバサンが「兄ちゃん、店間違うてるで。
   ここには、高級家具しか置いてないで。」と言うので、「もう買ったやつを取りに来ただけだ。」と言うと、
   「客」だとわかって「態度」のルールを急に変えた店員のオバサン。
  ・「お客様」なら「神様」として扱えというルールがあるが、「お客様」でない人間はどういうルールで扱われる
   のだろう?
     「関係性」が変わると、「ルール」が変わる一例

 
 E・あなたに金づちを一つ渡すとする。あなたが、これを金づち本来の使用法というルールに従って釘を
   打ったり、モノを叩くことに使用すると、それは金づちと呼ばれて、あなたと金づちとの関係性は「人」と
   「道具」である。次に、あなたがこれを人を殴るのに使ったら、それは凶器と呼ばれて、あなたと金づち
   との関係性は「人」と「凶器」である。あなたがそれを持って戦(いくさ)に出かけたら、それは武器と呼ば
   れて、あなたと金づちとの関係性は「人」と「武器」である。

  ・嫁に来たのだが、どうも旦那のお母さんとの折り合いが余りよくない。そこで、あなたは、思い切って義母を
   誘って自分の好きな歌舞伎役者、中村勘三郎さんの「平成中村座」の公演を見に行くことにした。
   それ以来、義母も歌舞伎にはまって、二人の「関係性」は良好になり、それ以来、中村勘三郎の歌舞伎は
   ずっとふたりで観劇することにしている。
     「ルール」が変わると、「関係性」が変わる一例

 F「他人」とは何の関係性もない人のことを言うのだから、そうゆう人との間に「ルール」はない。

 G「敵(てき)」とは、何の関係性もないのではなく、普段「味方」に対しては「ルール」によって重罰付きで
  厳しく禁止・制限されている全ての行為を、積極的に行い合う「関係性」のことである。

 

 みなさんにまず理解して欲しいのは、人間もまた「宇宙の存在」であるのだから、それは「ルール」によって構築され、「ルール」に従って行動しているということだ。ルールを持たずに、何のルールにも従わずに生きている人間はこの世界にたったひとりもいない。人間は自分自身の中にある「戒」というルールに従って行動しているが、その「戒」は「関係性」のある人とのあいだにある「律」と呼ばれるルールによって制限を受ける。そして、他者との間に、どんな「律」でもって自分のルールである「戒」を制限するかを決めるのが、「関係性」(この場合は人と人とのあいだがら)なのである。最初に話したように人と人とのあいだがらには、「上司」「先輩」「後輩」「友達」「配偶者」「親」「子」「兄弟姉妹」「親戚」「先生」「敵」「味方」など、非常にたくさんある。その上、各々のあいだがらには「親しみ」に応じての「距離感」がある。万有引力の法則において、その力の強さが距離によって変わるように、人と人とのあいだがらの「距離」によって「ルール」は微妙に異なるのである。無意識のうちに、人はこの「あいだがら」と「距離感」で変わるルールをうまく使い分けをして生きている。だから、あなたが話している相手が「金持ち」だとわかって急にべんちゃらを使い出すことも、ろくろく学校も出ていないことがわかって急に偉そうにするのも、「関係性」がわかったので「ルール」に変化が生じ、あなたがそういう「関係」の相手とはいつもそうしている「ルール」に従って振舞っているだけだ。
 赤字で書いたFGの説明は、ここではやめておこう。
だから、この項の結論としては

 ◎
「関係性」があるとあなたが思うものとのあいだでは必ずあなたの行為を制限する「ルール」が生じる。「関係性」がないと思うものとの間には、決して「ルール」が生じることはない。そしてあなたの行為を制限する「ルール」がどんなものであるかは、「関係性(あいだがら)」によって決まる。

 
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