V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 3. 「ルール」について熟考する(2)
 A「ルール」の本来の意味について考える 

 「宇宙は法治フィールドだ!」(何度も言うな!) 本当にわかって欲しいから、つい何度も言ってしまう。
 この項では、「ルール」とは一体何で、それは何のために必要で、「ルール」によって何がどうなるのか、という「ルール」本来のことについて考えてもらおうと思う。というわけで、いきなり考えてもらうことから始めよう。

思考開始:宇宙にたった一つしかないものが制限を受ける理由を探す。自分の外部に何もないのに、
      どうしてそんなものが制限を受ける必要があるのか? その必然性について、もしあれば
      提示する。

思考開始:お互い壊れる可能性のあるものが二つ以上あり、それらがお互いに影響を与えあうことが確実
      であるとき、それでいてこの二つのものが全く何の制限も無いということが妥当なことなのか
      どうか、考える。
 

 まず、「ルール」とは一体何であろうか? 世界のどこにも「大量に」あるルールなのだが、ルールは一体何をし、ルールによって何がどう変わるというのであろう。 そんな根源的なことを考えてみようと思うのだ。そのために、まず一つ目の思考問題がある。もし仮に、この宇宙に(本当は何でもいいが、考えるのを簡単にするために)あなたがたったひとりだけいるとする。他には何もない、あなたの他には全く何もない宇宙を想像してみる。そのとき、あなたは何か制限を受ける必要があるだろうか? 制限とは「これをやっちゃいけない」とか「あれをやっちゃいけない」とか、そういうことだ。他に何もないのだから、とりあえず、あなたが「他者」を理由に制限を受けることはないと思う。なぜならその必要性が全くないからだ。「他者」がいないのだから、何をしても迷惑をかけないし、何をしても誰も何も傷つけたり壊したりしないのだから。

 「他者」がいなければ、制限を受ける必要は全くないと思われる。なぜなら、その必然性がどう考えても浮かんでこない。
  
・・・・・これが結論の(1)

 次に実際の宇宙には、生物など(ましてや人間など)影も形もない137億年前から「物理法則」というルールがある。そして「物理法則」は、物質の運動や変化を制限している。そしてそれは、運動や変化に「規則性」を与えている。「規則性」のあるものは「秩序のあるもの」であり、「規則性」のないものは「無秩序なもの」つまり「デタラメなもの」だ。「デタラメなもの」を「規則性」のあるものにするためには、整えることをしなくてはならない。整えられたものだけが「規則性」のあるものだ。そして、整えることをするのが「ルール」である。(「理」という漢字の語源は「整える」ということらしい、そこから整えるものを「理」すなわち「ルール」と呼ぶようになったらしい)そして、「デタラメなもの」を整えるためには、「制限」を加えなくてはならない。だから、「物理法則」という「ルール」は物質の変化や運動に制限を与えるものだ。137億年前と言えば、死すべき運命にある「生き物」はいない。だが、壊れるものなら既にある。水素原子は部分を持っているから、部分であるものに壊れる可能性はある。だが、「壊れない」ようにするために「ルール」があるのか? それは、ちょっと首をかしげる。なぜなら、原子より先に生まれた素粒子は元々壊れないからだ。壊れるものをわざわざ作って、壊れないようにルールを作ったというのはどこか変な気がする。だから、壊れないようにするために「ルール」を作ったとまでは言えないから、ここでは「秩序あるもの」を創出するために「ルール」があるか、「秩序ある状態」を創出するために「ルール」があるとしておこう。とにかく、ルールによって制限された存在にも現象にも「秩序」があることだけは確実なことだから。
 
 「ルール」とは「制限」することで「整える」ものである。そしてそのことで、「規則性」のある「秩序あるものや状態」を創出する。
  ・・・・・これが結論の(2)

 次に二つ目の思考問題について考えてみよう。これは全然むつかしくない。格闘技など、肉弾相打つようなスポーツ競技について考えれば、すぐに答えは出る。スポーツの全て、ゲームの全てにはルールがある。スポーツやゲームは参加するのも、観戦するのも人が楽しみで、あるいは娯楽でやっていることだ。そのようなことで、いちいちケガしたり、大きな傷害を負ったり、死んでしまったりしたのでは全くやってられない。だから、参加する人が傷つかないようにするための「ルール」は必ずある。そして、ゲームの進行上の「ルール」違反より、人を傷つけるような可能性があるとみなされた「ルール」違反は、「危険行為」として重い反則を取られることになる。プロレスでは「ルール無用の悪党(ヒール=悪役レスラー)」がいるが、彼らが「悪党」と呼ばれるのは「ルール」を無視するからだ。だから、プロレスにも「ルール」はあって、もし「ルール」そのものがなくて何でもアリなのであれば、そもそも「悪党」というのがいなくなる。
 「ルール」がないということは「制限」を受けないということだ。「制限」を受けないのだから「自由」なのだが、この自由はあまり意味のない自由だ。何故なら、それはお互いが傷つき、お互いが壊れて、お互いが死んでしまうこともあるからで、そうなると「ルール」のない「自由」は「持続性」に欠けることになる。みなさんは、お気づきではないかもしれないが、「戦争」は国家によって敵国とのあいだにある「ルール」を無視して良いという許可が降りた戦いだ。だから、基本的に「戦争」には「ルール」がない。19世紀の半ばに赤十字の提唱で調印された戦時のルールであるジュネーブ条約(「捕虜の扱いに関するルール」)などがあるにはあるが、昔から戦争というのは、相手国の人間を殺傷しても良く、相手国の国土を破壊しても良く、相手国の財産を簒奪しても良く、相手国の婦女子を乱暴して良いのだから、「ルール」などない、全くないと言って良い。戦争をしている当事国の「国内ではルールによって禁止している行為」を全て「敵国」においてはしても良いのだから、「ルール」などあるわけがない。「ルール無用の悪党」になることを国家が許す戦い、それが戦争だ。
 だから、お互いが壊れるもの同士のあいだで、お互いに壊すことができるのであれば、そこには「ルール」による制限があるのは当然だろう。私たちの社会のルールのうち、特に道徳の根源は「汝殺すなかれ」だそうな。人は人を傷つけることができる、人は人を殺すことができる、だからこそそのような行為は「ルール」によって制限されているのだ。

 一つ目の思考問題だけを考えてみると、「ルール」とは「秩序」の創出が目的であって、お互いが壊れないためにあるのではないように思われた。だが、二つ目の思考問題を考えると、壊れる可能性のある二つのものの間に「ルール」による制限がないことの方がおかしいと思われ、それならばやはり、「ルール」は「お互いが壊れないため」「お互いが傷つかないため」「この宇宙で生まれた形や構造が維持されるため」にあるということになるのではないか、と思えてくる。そこで次のような結論になる。

 「ルール」とは「秩序」を創出するものであり、「秩序」とは、壊れる可能性のあるものの、壊れる可能性を最も低い状態にすることで壊れないようにして、出来るだけ長く維持するためにあるものである。
  ・・・・・これが結論の(3)

 さて、「ルール」の根本的な意味や価値について、考察してみた。「ルール」があることで、世界は「秩序あるもの」となり、「秩序」があることで、その世界の中にいる全てのものの壊れる可能性を最も低い状態できるというのが、私の考察の結論であった。ルールがあって、それが完全に遵守されていたとしても、「絶対に壊れない」わけでもないし「絶対に死なない」わけでもないのである。ただ壊れたり死んだりする可能性の低い状態を維持できる、それが「ルール」によって「秩序」が創出されることの意味であり価値であると考える。そこで、私はみなさんに残酷なことを言わなくてはならない。そして告白すべきことがひとつある。

 残酷なこととは、
  宇宙は「法治フィールド」であって、「ルール」によって「秩序」を創出し、「壊れるもの」「死すべきもの」をなるべく壊れないように、死なないようにしているのだから、

 
それゆえモノは壊れて、人は死ななくてはならない。
          なぜなら「ルール」の意味や価値がなくなるから。

 そして告白すべきこととは、前に話した次のようなことに関することだ。
 『私は「私が何のルールも守らずに私と対象と双方ともにうまくいく」モノなりヒトなり生き物なりをたった一つでも見つけようと頑張ったが、20年探した今でも、まだひとつも見つからない。(本当は一つだけ見つけたので、私は世界で「それ」とのあいだにだけルールを持っていない。それゆえ私は「それ」とのあいだでだけ、ルールの制限を受けないので完全に自由なのだ。でも、私以外の70億全ての人間が「それ」とのあいだのルールは後生大事に守っている、私は「それ」の前でだけ完全な自由になれるというのに、他の誰もが「それ」の前ではうんと不自由なのだから不思議なことだ。)

 「それ」とは誰のことだか見当はついただろうか? 「それ」とは、「神様」「仏様」のことだよ。神様も仏様も「絶対者」であって、人間ごときがどんな影響も与えることはできないと、宗教家の方々はみな口を揃えておっしゃるので、それなら私と神様や仏様の間には「ルール」は必要ない。「壊れないもの」「減じたり、滅したりしないもの」ましてや「死ぬことなんてありえないもの」とのあいだに「ルール」があるなんてことは到底考えられない。もちろん、私の方に「ルール」はなくても、神様、仏様の方には「ルール」は必要だ。神様仏様の勝手気ままで、私を傷つけたり殺したりされてはたまらんから、きっと妥当なルールをお持ちだとは思う。彼らは「絶対者」であるのに、「ルール」によって「制限」を受けているのは自分の方だけだというのは皮肉なものだ。本当なら、地球上に住む70億全ての人間は、私と同じはずなんだが、ほとんどの人は神様や仏様の前では「ルール」でがんじがらめなのだから、理解に苦しむ。まぁいいけど、とにかく私は「私と神様や仏様との間には直接的には何のルールもなく、それゆえ私は神や仏の前では完全に自由である」と思っているのだ。
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