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 V 人間は宇宙をひどく誤解している
 
 2. 「ルール」について熟考する(1)
  宇宙は「法治フィールドだ!」。全ての存在は「ルールに従って生まれ、全ての現象は「ルール」に従って起こる。そのことは、私たちの知る世界の、何もかも全てが「ルール」に従って構築されたものばかりであり、世界中で起こることの全てが「ルール」に従って起こることばかりである、ということを表している。そして、世界中にある全てのものの間には、「関係性」がある。つまり世界中のもの、(あるいは宇宙中のもの)は「お互いに影響を与え合うことが確実な間柄(あいだがら)」であるということだ。だから、全てのものの「関係性」の中には「物理法則」という「ルール」があり、そのルールによって影響を与える原因となる「力」の「方向」と「大きさ」が制限されている。世界中の全てのものが、妥当な「ルール」によって制限された妥当な「力」でお互いが「力」をやり取りしている限り、全てのものの関係性は良好であり、どちらかが傷ついたり、滅びたり、壊れたり、死んでしまったりするということがないようにできている。
 とまぁ、これが世界というものの正体であって、世界はどこもかしこもルールだらけなのだが、前にも言ったように「ルール」は見えないのだ。私たちの感覚器官が直接「ルール」を捉えることはできないのだから、みなさんには世界がルールだらけであることなんか、ピンとこないだろう。それゆえ、まずは、世界がどれほど「ルール」だらけなのかについて知ってほしいと思う。目に見えている世界は「ルール」というフィルムに光を当てて映し出した世界みたいなものであることをわかってもらいたい。

@世界はルールだらけなのに(その1)

 みなさんは「特別」が好きで「ありきたり」や「いつも通り」が嫌いだ。だから、「誕生日」や「××記念日」などの特別な日や「特別誂えの××」なんかが大好きだ。「他人のスキャンダル」も「特別」なことだから大好きだが、「ものごと」がありきたりでいつも通りだと関心すら示さない。「ルール」通りにものごとが運ぶことなんて、つまらないから、「ハプニング」が起きて欲しいといつも思っている。
 動物というのは人間に限らず、みんな当たり前のことには関心を示さないと言う。いつも通りのことが起こっている間はいつも通りに振舞っていればいいと思っているのか、とにかくそれは危険を示すサインではないから気にも止めないらしい。いつもと違うことが起こったときには、それは危険があるかも?のサインかもしれず、自己防衛本能と言うべきものが発揮されて、関心を示すようになる。だから、人も動物だし、いつも通りに起こることは全く気にもかけないことも仕方がないかも知れない。

 とは言え、みなさんの暮らしの毎日は、やはり「ありきたり」で「いつも通り」な毎日であるはずだ。「特別」な日ばかりでは、「特別」そのものがなくなってしまうから、平素はやはり「平素」(普段と変わらない)だろう。そこで、ちょっと考えてもらいたいことがある。それは「ありきたり」と「いつも通り」の現象の原因についてだ。つまり「平素」のメカニズムについて考えてもらいたい。

思考開始:「ありきたり」と「いつも通り」の現象の原因について、つまり「平素」という現象はどんなメカニ
      ズムで起こることかについて考えてもらいたい。


 毎朝、目覚ましが鳴って歯を磨いて、背広に着替えて朝飯を食べて、いつも決まった時間の電車に乗って会社へ行く。会社に着いたら仕事をし、お昼になったら昼食を食べ、夕方の5時過ぎになったら「お疲れ様」と言って会社をあとにし、また決まった時間の電車に乗って帰宅する。家に着いたら、「おかえり」っと言ってくれない奥さんのご機嫌を伺うために夕食を作っている奥さんの顔をチラ見して、、「まぁ、今日の機嫌はそう悪くはないか...」と安心して・・・・・・・・etc。さて、この平々凡々とした日常という現象のメカニズムとはなんだろうか? 毎日毎日繰り返し経験していることだから、本当なら考えることなどいらないはずだ。とはいえ、「事故」や「犯罪」など滅多に起こらないことについては誰でも関心を持ち、「事故原因」だの、「犯罪の動機や心理」など原因究明はすぐに行われるのが普通だが、いつもと同じことがいつもと同じように起こるメカニズムなんて誰も考えたことはないだろう。だから、誰も考えたことがないという理由でわからないのも無理はないかもしれないが、まぁそれが人生の大半を占める現象なのだから、一度ぐらい考えてもバチは当たらないだろう。
 
 私と物理学者をはじめとする自然科学者というのは、研究対象が概ねこの「いつも通り」の現象であって、特別ではない現象のメカニズムを探求している人たちなのだ。特に私は、特別が大嫌いで、当たり前の世界だけをずっと深く観察してきたから、このメカニズムについてはあらかた理解している。だから、答えを書いておこう。

 あなたの「平素」を作る全ての現象が「いつも通りのルール」に従って起こると、それは「平素」と呼べる現象になり、もし、あなたの「平素」を作る全ての現象のうち、どれか一つでも @「ルール」からの逸脱があったり A「ルール」そのものの変更があったとすれば、あなたの「平素」は良い方なら「特別」になったり「奇跡」になり、悪い方なら「アクシデント」になったり「悪魔の仕業」になる。

 と、まぁこういうこっちゃ。
 
 「ありきたり」と「いつも通り」に起こる現象は、あなたにはつまらない、関心もない現象かもしれないが、その現象の原因はあなたに関わる全てのものごとが「いつも通りのルール」に従って起こったということなのだ。「いつも通りのルールに従ってものごとが起きること」は、「平素」という現象を引き起こす原因だということだ。 あなたの体調が「いつも通り」なのは、あなたの体の中でいつも通りの「ルール」に従って細胞や組織や器官が活動してくれているからだ。いつものルールに従い、いつものルール通りにあなたの体を構成する全ての部分が組み立てられ、変化し、運動してくれていると、あなたの体調は「いつも通り」だ。これらのあなたの身体の部分であるもののルールに従う度合いが「理想」に近くなればなるほど、あなたの体調はゼッコウチョー!に近づく。そしてあなたの体の部分のうちどれか一つでもが、ルールの逸脱をしたり、ルールを変更したりすると、あなたの体調は悪くなったり変化したりする。
 あなたの乗る電車がいつも通り定刻に駅に着くのは、電車を整備する人や運転する人がルール通りのことをやり、機械である電車も物理法則というルールに従って動いてくれたからだ。整備士は整備マニュアルと言うルールに従って、良く訓練された熟練の技で、いつもと同じ状態に電車を整備してくれた。そして運転手も運転マニュアルというルールをもう一度思い起こし、過失によるルール違反を起こさないようにと、指差し確認をしながら確実にルールに従う運転をしてくれた。だから、毎日毎日駅のホームで待つあなたの目の前に、毎日毎日定刻に電車は滑り込んでくるというわけだ。あなたの世界で起こる現象の全てがいつも通りの「ルール」に従って起こるのであれば、変わったことや特別なことは何も起こらないが、その変わり安心した日々である「平素」が続いてゆく。「あなたと関わる全ての現象」に関わる全ての人のうち、誰かがルール違反をすると、そのとばっちりをあなたが受けることになるかもしれない。車間距離をあけるというルールを無視して走っていた車がぶつかったといえば道路は渋滞になり、制限速度を守るというルールを無視した車がぶつかったといえば人が傷ついて救急車が走り、積載重量のルールを無視したトラックが横転したり、走行距離制限のルールを無視した観光バスがガードレールにぶつかったといえば、大事故になって人が死に、道路は封鎖される。誰かのルール違反のとばっちりを受ける人は毎日大勢いるのだが、そのこと自体が(ルールではないが)「当たり前」みたいになっているとしたら、もはや誰も気にも止めなくなる。「ルール違反」を原因とするできごとは、時には大事故になって新聞やテレビニュースを騒がすという「特別なこと」になることもあるが、「特別好き」なあなたならそのような現象の原因についてはよくご存知であるはずだ。
 生きている人間の大半が「特別好き」であって、「奇跡」などという特別なことを好み、「奇跡」は神の恩寵であって、決してルールなんかに従って起こることではない、と思っているうちは、「平素」を作っている「いつも通りのルール」が日の目を見ることはないだろう。そして、「平素」ではない「特別なこと」のうちそれが「事故」や「アクシデント」とよばれるものならば、その原因はすぐに解明されて、それが誰かや何かの「ルールの逸脱」にあることを突き止めるが、話はそこまでだ。誰も、逸脱されたのがどんなルールであって、それがどうして普段は守られていて「平素」を作っていたのか、なんてことを考えたりはしない。いつも通りは「いつも通りのルール」が遵守されることが原因で起きているが、「いつも通り」は人の関心の外にあるから、起きていないのも同然なのだ。
 あなたが死を迎えるとき、走馬灯のように脳裏を巡る回想は「特別なこと」を繋いだものであろう。それは普段と平素は全くカットされた映像である。私が死を迎えるときは、全く逆で普段と平素の映像なのだが、どちらの映像の方が長いかはもうお分かりだろう。この差は相当なものになると思うが、今からでも遅くはないから、すべての日を「特別」な日として生きてゆくことをお始めになるか、全ての日を「特別」ではない日にして、普段と平素そのものに関心をお持ちになるかしないとあなたの思い出は随分ちっぽけなものになると思うのだが。

@世界はルールだらけなのに(その2)

 私たちの世界にあるものは全て素粒子という極微のもので出来ているのだから、私たちが普段見るものは全て、それが組み立てられたものであることは間違いないことだ。素粒子は、原子を組み立て、原子は分子を組み立て、原子や分子はおよそ10の23乗個程度集まって、私たちの世界にある「物体」を組み立てている。私たちの世界には人が作ったものも、自然が作ったものもたくさんある。世界にはいろんなモノや生き物がたくさんあふれかえっているし、そして、それらが織り成すたくさんの現象がある。 人間は今までの歴史の中で、これら世界の中にある全てのモノと生き物とそれらが織り成す現象を対象に探求を続けてきた。どこかの誰かが、世界にあるほとんど全てのものに興味を持って、探求を続けてきたのである。だから、世界にあるどんなものにでも、どんな現象にでも専門家はいる。良く知っている人はいるのだ。そしてそんな専門家は、みんな自分が探求の対象としているものの「つくり方」やどうしてできたかという「でき方」(というルール)を知っている。
 人間が作ってきた全てのモノは、それに携わる一流の人が見れば「どうやって作られているか?」はすぐにわかって、同じようなものを作ってくれと頼むと、金と日数を惜しまなければ必ず作ってくれる。一流の大工さんなら、「この家と同じものを作ってくれ」と頼むと、「旦那、高くつきますがよろしいですかい?」と聞かれ、「金に糸目はつけねぇ!」なんて言うと、あっという間に図面と見積もりを作って持ってきてくれるだろう。一流の陶芸家なら、作品を見せただけで、「あぁ、これは多分××地方で取れる土を使って、釉薬は××で、××度ぐらいの温度で焼き上げればできると思う。」と答えてくれるだろう。一流のシェフなら、料理を一口味見しただけで、材料と調味料と調理方法を理解するだろう。例え芸術品でも、(贋作になってしまうが)多分大丈夫だと思う。こんな具合に専門家なら、ただ見ただけでそれがどのように作られたかという「ルール」がわかるのである。もし仮に、専門家連中の誰に見せても、その「作り方」というルールが理解できないものがあるなら、それはひょっとしてルールに従って創られたものではないかもしれない。残念ながら、そういうものは存在しないことを人間なら誰でも無意識のうちにわかっているのか、そういうものが例え現れても、人間は興味を抱いてルール探しをはじめるだけである。ピラミッドの作り方も、イースター島のモアイ像の運び方も、誰もそれらにルールがないなんて思っていないから、いろんな方法を考えては、実際にやってみるということを繰り返している。そうして、ピラミッドは巨大なスロープを使って石を運び上げて建造されたらしいということがわかってきた。イースター島のモアイ像は、ロープをうまく利用して、人が交互にその巨体を揺らすことでモアイ像を歩かせて運んだらしい。というわけで、とにかく、人間の手によって作られた全てのものは「ルール」に従って作られている。完成品を見たら、専門家ならただ見ただけで「つくり方」という「ルール」は把握できるのである。ただし、専門家とは、そのものを作るのに必要な全てのルールに精通している人のことだから、それ以外の人が見ても「ルール」を把握することはできないが。
 他方、自然が作ってきたもののうち、物質でできたものはあらかたの作り方は解明されている。星や惑星や太陽系も銀河もどのようにしてできてきたのかは、あらかた理解されている。そして山や川などの地形や地質などに関することもその多くが解明されている。「作り方」というルールが良くは分かっていないのは「生物」に関することだ。これがよくわかっていないので、たくさんのSF映画のモチーフとなってきた。生物が地球外で発生したとする考え方を「パンスペルミア説」と言うが、発生がどこであってもどうやってできてきたか、というルールは必ずあるはずだ。今のところ良くは分かっていないのは事実だが、そこになんのルールも見いだせないなどとは誰も露ほども思っていない。探せば「ルール」はあると誰でもが思っているから、多くの人が研究の対象としているのである。
 本屋に行けばほとんどのものについての「作り方」とかほとんどの生き物についての「育て方」、あるいは「恋の仕方」や「人との付き合い方」、「お金儲けの仕方」「成功の仕方」などが書かれた本がたくさんある。これらの本を総称して「ハウツー本」なんて呼んでいるが、これらはみんな「ルール」について書かれた本であり、知りたいのにわからない「ルール」のある人がその目的に合わせて購入するものだ。これらの本にはものすごい数と種類があるのはみなさんご存知だろうから、単純に考えてそれだけの数と種類の「ルール」が世界にはあるということだ。ただし、「ルール」には精度というものがあって、物理法則の精度は実測値とのずれが、わずか何百万分の一以下というものが多い。実測値にも測定誤差というものがあるから、これらを加味して物理法則の精度を考えると、物理法則はとんでもなく高い精度を持つ「ルール」だと言える。だから、ハウツー本に書かれたことが間違いだとは言わないが「ルール」には精度があることを知っていないといけない。精度が低くて、ほとんどあてにならない「ルール」が書かれたハウツー本もたくさん出回っていることも事実なのだ。(まぁ、そのこともみなさんご存知だろうけど。)

@世界はルールだらけなのに(その3)

思考開始:あなたがいる。(当たり前だけど。)あなたの今いる場所を見渡せばたくさんのモノがある。
      それらのモノ全てについて、あなたがたった一つのルールも守ることをしなくても、あなたと
      そのモノ両方ともに、壊れたり傷ついたり機能しなくなったりしないモノを探す。

 
つまり、あなた自身と、あなたが何かしら関わりがあるものとのあいだに、何のルールもないもの、何のルールも必要としないものを探すわけだ。そして、あなたが何のルールも守らなくても、あなた自身もそのものも壊れたり傷ついたりしない、そういうものを探して欲しいのだ。もし見つけることができれば、あなたは、そのものの前では何のルールによる制限も受けないでいいから「自由」なのだが、果たしてそういうものがあるか、時間をかけてもいいから探して欲しい。

 
一つでも見つけることができれば、それは大発見だ! 私は「私が何のルールも守らずに私と対象と双方ともにうまくいく」モノなりヒトなり生き物なりをたった一つでも見つけようと頑張ったが、20年探した今でも、まだひとつも見つからないのだから。(本当は一つだけ(私は多分この世界の中にないものなのだと思うのだが)、私は見つけた。だから私は世界中で「それ」とのあいだにだけルールを持っていない。それゆえ私は「それ」とのあいだでだけ、ルールの制限を受けないので完全に自由なのだ。でも、私以外の70億ほとんど全ての人間が「それ」とのあいだのルールは後生大事に守っている。私は「それ」の前でだけ完全な自由になれるというのに、他の誰もが「それ」の前ではうんと不自由なのだから不思議なことだ。)

 20年も探し続けた私の私見ではあるが、そういうものを見つけることはできなかった。つまり、この宇宙にある全てのもののあいだには絶対に「ルール」があり、双方が「ルール」を守ることでのみこの宇宙は成立していると思われる。

 検証してみよう。身の周りにある全てのモノを一つづつ検証するのは面倒くさい。それには誰でもの「理性」にある「範疇(カテゴリー)」に分ける能力というものを使って、カテゴリーごとのルールを考えてみよう。
 @電化製品と機械類は「水」に弱いことが多い。だから、あなたはこのようなモノを「水」からは遠ざけて使うと
   いうルールを守っているはずだ。また、電気を使うものは感電という恐ろしい事態を招く可能性がある。
   だから、あなた自身の身を守るためにも、「水」の近くではこれらのモノを使っていないはずだ。
   (まぁ、最近は「防水」対策の施されたものがたくさん出回っているが。)

 Aあなたは食べれるものと食べれないものをきちんと分けるルールを守っているはずだ。だから食品ではない
   もの、あるいは食品ではあっても腐っていたりするものは口に入れないというルールを守っているはずだ。

 Bほとんどのモノは「燃える」し燃えると壊れるので火を点けないというルールを守っているはずだ。火の恐ろし
   さを知っているあなたは、火を有効利用するために、それを扱うときのルールをたくさん守っているはずだ。

 Cペットを飼ったら、虫でもカメでも鳥でも猫でも犬でも餌をあげたり「飼い方」というルールを守っているはず
   だ。途中でルールを守ることをやめてしまったり、間違ったルールを続けていたり、ルール違反をすると
   それはペットの死を招くことになる。

 D人と人の関係の間には、クソほどのルールがあり、それもかなり複雑になっている。だからこそ誰でもが
   「人間関係」には手を焼いて、ストレスを感じてしまう。妻であろうが、子供であろうが、友人であろうが、
   先生であろうが、ご近所さんであろうが、警察官であろうが、お役人であろうが、上司であろうが、同僚で
   あろうが、部下であろうが、ビル・ゲイツさんであろうが、胡 錦濤さんであろうが、野田佳彦さんであろうが、
   みんな同じ人間だということで、面倒くさいから同じルールにして欲しいものだ。

 E田舎暮らしのおばあさんは、「タラの芽」の全部は採らず、毎年毎年来年のことを考えてある程度の新芽は
   残すというルールを守っている。「タラの芽」は全ての食料になる天然資源の一例だ。ニシンを獲りまくって
   「御殿」を建てても、ニシンはあっという間に取れなくなって、「御殿」を維持することもできないほど貧乏に
   なる。だから、食料になる海の生き物たちの漁獲高はみんなルールによって制限されている。原始の時代
   に人間は「投擲具」という道具を使ったチームプレーで、大型の哺乳類の多くを獲り過ぎて滅ぼしてしまっ
   た。今では、人間は妥当なルールを遵守することで資源を守り、持続性のある食料として利用できることを
   学んだわけだ。

 F「自然」と呼ばれる環境は、山でも海でも川でも、産業革命以前の科学レベルとその頃の人類の人口程度
   なら、人が相当無茶なことをしてもそうそう傷つけることができないほど偉大なものであった(と思う)。
   だが、今は自然という環境保護のために人の行為は厳しいルールによって制限されている。最近では、
   大気中の二酸化炭素の量が問題になり、排出量がルール化された。

 G「地球」は今にも壊れそうなガラスの惑星だそうだ。だから、「地球を守れ!」と声高に叫ぶ人が大勢いる。
   でも、どうやったら守れるか、誰も明確には答えを出していない。人が妥当な「ルール」を遵守することで
   しか「地球」を守ることはできないのだが、果たして、「ルールを尊重する」ことなど、頭のなかにも心の中に
   もまるでない人間が出来るかどうかは大いに疑問が残るところではある。

 H階段でブレイクダンスは踊らない。頭や体中の骨が砕けるぞ!

 あなたの周りを見渡して、あなた自身が何のルールも守らないで、自分も傷つかず、壊れもしないものがあっただろうか? 無いだろう? 人は無意識のうちに自分に関わる全てのモノとのあいだに「自分」が傷つかないようにするためのルールだけは必ず見つけて、無意識のうちにちゃんと遵守しているのである。だから、ほとんどの人間は無意識のうちに自分の身を守るルールだけは守っているから、それゆえ傷つかないで生きているというわけだ。もし、脳に損傷を受けるとか何かして、今まで無意識のうちに守っていたルールを守れなくなると、あっという間に人は傷つくか死んでしまうかするのである。ついでに言うとほとんどの人は無意識のうちに「自分の利益になるルール」だけは守っていて、それゆえ(人をモノを思いやっているのではなく、そんなことをすれば自分に不利益になるという理由で)他のヒトを傷つけず、モノを壊さないでいるともいえるのだ。これらのことは、「理性」か、もしくは「野生」がオートマチックにやってしまう。 オートマチックにやってしまうので、誰も気づかないのだ。
 みなさんには、自分の行為に関してだけはほとんど完全に近い「自由」がある。だが、その自由は「自分自身を守るために必要なルール」全てによって制限を受けている。その数は、みなさんが関わるモノや人、生き物の数だけあるから膨大な数に上ると思う。だが、それらを一つ一つ頭で覚えて、頭の引き出しの中から引っ張り出してくるというのではなく、それらのルールの大半は繰り返し繰り返し行うことで体が覚えている。だから、全てのルールはごくごく自然に皆さんの行為を制限している。新しいモノと出会うと、みなさんはそれがどのルールを適用すべきものかを、今までの経験によって構築された「範疇」と呼ばれる分類と照らし合わせてルールを類推する。先に述べたようにそれが電気で動いたり機械であったり、見るからに精巧であったりすると「水」を避けるということを自然に行うのだ。紙や木でできたモノなら「火」を遠ざけるということも、冷蔵庫に入れっぱなしの食品ならば口にする前に匂いを嗅ぐとか、ごくごく当たり前にルールを守っているのである。だから、逆に人が傷つくことや人が死ぬようなことは、やろうと思えばすぐにできる。膨大な数のルールを守っているから生きていけるわけだから、そのうちの一つでも自分自身で破ってみたら、すぐにか明日には病院へ行く羽目になることは間違いない。ものは試し、一度通電したままのテレビといっしょにお風呂に入ってみたらどうか? なんて言いたいが、結果は解っているのでくれぐれも実行しないように。

@世界はルールだらけなのに(その4)

 さて、衝撃的な事実を教えてあげようと思う。それはみなさんの行動のほとんど全て(おそらくは100%近く)は予測的行動であるということだ。なぜなら、みなさんは自分と関わるものが次にどのように変化(動くとか、変わるとか)するかについて、全てご存知だ。なぜなら、それらのものがどのようなルールに従っているかについて知っているからだ。そして、みなさんとみなさんが関わる全てのものとのあいだにあるルールについても重々ご存知だ。だからそのものに対してどう振舞って良いかがわかっている。もちろん、みなさんはいちいち「ルール」を知っているなんて思ってはいない。ルールのほとんどは先に述べたように自然に身について、全く無意識のうちに無意識の中に格納されているから、誰もルールを知っているなんて思ってはいない。でもルールを知っているのである。なぜか? もしルールを知っていなければ、みなさんは一歩も動けなくなるか、身動き一つできなくなるからだ。だから、みなさんの体が自然に動いているのは、全てルールを知っているからだと思ってもらって差し支えない。そしてルールを知っているからこそ、前もってわかっている妥当な行動をしているだけなのである。なぜなら、ルールを知ることでだけ得られるとても大切なことがあって、それを利用しないことには生き物は生きてゆけないからだ。その大切なことこそ「未来予測性」というものだ。
 コップを持つ、バットを振るなど、物を持つ行為は全て、みなさんはものを見て力の出し具合を予測的に変化させているのだ。誰も、生卵やバカラのグラスを持つときに、ダンベルを持つような力を使ったりはしない。ものを見たらそれを持ったり運んだりするのに必要な力について予測し、必要な分の力だけを使ってものを持っているのである。持つ場所についても、持ち方についても、前もってわかっているから、モノを持てるのである。モノを持つという簡単なことでさえ、前もってルールを知っていなければできないのだ。だから、子供はルールを知らず、それゆえ前もっての予測が出来ないので、ときおり物を壊してしまう。例えば、子供に初めて昆虫を持たせたら、ほとんどの子供はきつく握って昆虫の足や羽を痛めてしまうか、あるいはその反対に力を掛けなさ過ぎて逃がしてしまうだろう。しかし、そんなことをほんの数回かそこいら繰り返しているうちに、どんな子供も昆虫を持つのに適切な持ち方と力加減を学習して、逃がさず壊さず適切な力加減で虫たちを扱えるようになる。このように、私たちは生きている間に実に多くのものに触れて、持ったり握ったり、担いだり蹴ったりするだろうが、そのたびごとに力加減と言うものを学習して行ったのである。これはモノを持つことだけに限らず、人間の全ての行為に当てはまる。どれだけの「力」をどのように加えれば、どのような変化をするかについてのルールを前もって知っているから、「力」を使うこと、つまり「行為」や「行動」ができるのである。もし、全く知らないものや現象が目の前にあって、今までの経験からはよく似たものも探せず、どんなルールも見つけ出せないようなことになったら、人間は動かないのだ。決して触ったりしないで、身の危険を感じなければ「観察」するだろうし、身の危険を感じたらすぐにその場を逃げ出すであろう。そして、ルールのわからない現象が突然襲ってきて、あっというまに自分の身が危うくなったとしたら、人間は「パニック」という状況に陥って、動きたくとも動けない状態になるか、デタラメな行動を取ってしまうかのどちらかだ。
 しかし、このような「未来予測性」を利用できるのは、私たち生き物の持つルールを把握する能力である学習能力のせいだけではない。それは私たちの触れるもの、つまり「世界」の全てが「ルール」に基づいて構築された「一貫性のあるもの」だけで出来ているから、私たちの学習が有効であることを忘れてはならない。鶏が産む卵の重さも硬さも、どれも似通ったもので一貫性があるのは鶏の卵が鶏の体内でルールに従っていつも同じように作られているからだ。だからこそ、私たちは卵を割らずに持ち運ぶことも、必要なときに割ることもできる。もし、鶏の卵の重さや硬さが卵ごとにでたらめであったら、私たちはいちいち重さを計ってからでないと持てないということになるし、割るときにもいちいち加える力加減を検討しなくてはならなくなる。世界にあるものは、全てルールに従って作られたもので、ルールに従った変化しか起こさない。だからこそ、ものの重さや硬さなど性質というものにも一貫性があるし、その運動や変化にも一貫性があって、世界にあるもの全てにそのような性質が備わっているからこそ、学習が有効なのである。そのような世界全てが有する性質の根底にあるのが「宇宙は法治フィールドである!」という紛れもない事実であり、この宇宙がルールだらけで、ルールがもたらす「規則性」「一貫性」「循環性」「周期性」を持つ存在とそれが織り成す「規則性」「一貫性」「循環性」「周期性」のある現象だけしか起こっていないからこそ「未来予測」が可能であり、それなしでは生き物はとりあえず一秒たりとも生きてゆけないのである。


 宇宙(世界)は法治フィールドだ。この宇宙にある全てのものは「ルール」に則って作られ、「ルール」に従って変化している。物理学は自然の中に隠されたルールを発見することを行ってきた。物理学だけではなく、生物学も地学も、およそ自然科学に属する学問は全て自然の「ルール」を発見することが最終目的だ。ルールを知るということは、ものごとがどのように変化していくかを知ることだ。世界は「万物流転」で片時もその変化をとめることはないが、その変化がすべて「ルール」に則って起こるというのであれば、私たちはその「ルール」を知ることで、それを前もって予測することが可能なのだ。この「未来予測性」こそ、私たちがルールを知ることの現実的な価値なのである。そして、私たちが時間を遡って過去について知ることができることも、「ルール」を知っているおかげだ。過去から未来へと「ルール」に変更がないのであれば、私たちはものごとが変化する以前の姿についても知ることができる。人間が知りえた過去は、およそ137億年前までのことだが、物理法則について理解しているからこそ、そしてこれらの法則に変更がないからこそ、そんな昔のことまでわかるのである。 

 この項では、みなさんに「この宇宙が法治フィールド」であって、この宇宙にある全ての存在は「ルール」に従って作られていて、その変化や運動も「ルール」によって制限を受けていて、おまけにひとつひとつ在るものどうしのあいだにも「ルール」があって、みんなそれを遵守しているから、周りのものや関わりのあるものを壊さないで済んでいるのだ。ということをわかって頂ければ良い。世界はとにもかくにも「ルール」だらけなのだが、ルール通りにことが運ぶことは「当たり前」で「ありきたり」なことなので、誰かが気づくこともない。その結果ルールだらけの世界であるのに、ルールが大切なものになることも今までは皆目なかったのである。そして、「ルール」によって作られたもの、「ルール」によって引き起こされる現象にはみんな「規則性」「一貫性」「循環性」「周期性」などがある。だから、世界の中にこのような特徴のあるものを見つけることができたら、それはルールによって作られた存在で、ルールによって引き起こされた現象だということができる。雷はどこで起きても、そのルールは同じだ。I PHONE 4Sはどこで作られてもそのルールは同じだ。宇宙にあるすべての星はどこで作られても「万有引力の法則」というルールによって作られている。社会主義国であろうが、自由主義国であろうが、「法治国家」であるというルールは同じだ。料理のルールは「レシピ」であり、そこには使う材料と力や熱の加え具合が書かれてあって、その通り作ると、誰が作っても(まぁまぁ)同じような料理が出来上がる。言葉はどこの国の言葉でも「文法」というルールによって作られている。例え文法が違っていても、ソシュールという人が見つけた文法の中に隠れたルールである「言語構造」というルールは同じだ。会社には社則というルールがあり、学校には校則というルールがある。車やバイクや自転車、そして人が道を歩くには道路交通法というルールに従わねばならない。社会には、法律や条例、マナーや慣習などのルールがある。人は癖というルールを身につけている。素粒子はシュレディンガー方程式やマックスウェル方程式などのルールに従っている。原子も分子もみんな物理法則というルールによって構築されている。ミドリムシもカマキリもイワシもカエルもカメもカラスもコウモリも犬もトラも象もボノボもイルカもクジラも、みんな習性や本能というルールに従っている。
 どうですか? 世界は本当に「ルール」だらけだろう!
 でも、「ルール」は見えない。私たちの感覚が直接「ルール」を捉えることはできないのだ。だから、存在や現象の持つ「規則性」「一貫性」「循環性」「周期性」などの特徴から、私たち人間が他の生き物に比べ格段に発達させた能力である「理性」を使って「ルール」を推測する。ニュートン博士もファラデー博士もカルノー博士もボルツマン博士も、すべての科学者物理学者は、みんな現象の中から「見えないルール」を探し出したのだ。そうやって見つけ出された自然の法則の数だけでも相当な数がある。それに加えて、私たち人間には国家や社会のルールがたくさんある。

 ルソー先生は、こうおっしゃった。「人間は自由なものとして生まれている。しかもいたるところで鉄鎖につながれている。」と。この言葉に表現された意味をみなさん自身が心から理解してくだされば、これからの話はもっと関心の持てるものになると思うのだが。
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