U 宇宙のメカニズムを理解する
 
 9. 部分と全体   ・・・「存在」の条件
  宇宙を理解するには、いくつかのキーワードがある。そのいくつかを紹介すると「関係性」「ルール」「自由と制限」「秩序と無秩序」「構造」「部分と全体」「ヒエラルキー」などだと思う。これらは、宇宙の全時空で共通の言葉だ。これらの言葉は、ミクロ宇宙にもマクロ宇宙にも、そして天体構造にも生物構造にも当てはまる。ここでは「部分と全体」について理解してもらおうと思う。「部分であって全体でもあること」はこの宇宙に存在するための「必要条件」だからだ。
 「存在」は哲学の対象で、この言葉に関しては難解な文章がたくさん残されている。でも、どれもこれもそのほとんどは「素粒子論」と「量子力学」以前のものだから、昔の哲学者さんたちはあれこれたくさん推量しなくてはならないことが多くて、それで難解になったのだろうし、意見のまとまりも見られなかったのだと思う。しかし哲学に少しでも造詣のある人は、軽々しくこの問題を扱うことを良くは思わないだろう。そこで、「モノそのもの」の「存在」は扱わずに、カント先生が主張するところの「現象」として把握できる「存在」、私たちの感覚器官が捉えるところの「存在」についてのみ話を進めることにする。
 まず、 量子力学のところで述べたように存在には2種類あることを思い出して欲しい。一つは「宇宙の時空の中で特定の一点を占めて存在するもの」(A存在とする)で、二つ目は「A存在に影響を与えることが確実であるという理由で存在するもの」(B存在とする)であった。A存在は物質粒子で、B存在は力の粒子であり、両者の関係は、B存在である力の粒子がルールに従ってA存在を組み立て、ルールに従ってA存在に変化や運動をもたらす、というものだ。そして、「観測」という行為を行わなければ、A存在はシュレディンガー方程式に従って波の運動をしていて、「観測」した途端に波は収縮してA存在は一点に見いだせるというものであった。「観測」という行為は光を当てて対象を見ることだから、光を介して相互作用するものである「電荷」を持つモノが対象であれば、観測はできる。今話題の暗黒物質や暗黒エネルギーは光を介して相互作用しないので、おそらく「電荷」を持ってはいまい、それで観測できない。あることはわかっていても、見つけることはできないということだ。(重力を直接「観測」する事に使えれば、事態は変わるであろうが)
 次に、観測以前のことについて少し考えよう。物理学者が観測する以前、A存在はシュレディンガー方程式に従った運動を行っている。この状態では、A存在は波として振舞っていて決して時空の一点を占めてはいないので、A存在は事実上A存在ではないことになる。それでは、この時のA存在は何か現象に与(あずか)っていたり、何か現象を引き起こしているであろうか? 答えはNO。この間のA存在、つまりシュレディンガー方程式に従って運動しているA存在は「在る」はずなのだが、何も現象を引き起こしていないので「無い」に等しい。物理学者がシュレディンガー方程式に従って運動しているA存在を見たとしよう。彼にこのシュレディンガー方程式に従っているA存在が見えたとすると、それは「観測」することだから、その時点で波は収縮してしまう。すると彼とA存在の間では、「彼が一点に収縮したA存在を見る」という現象が確実に起こるのである。
このことから、次のようなことが言える。
 @現象を引き起こすには、同じルールに従う最低一者の「他者」を必要とする!!!
 現象が起きるには他者を必要とする。しかもその他者は同一のルールに従っているものでなければならない。同一のルールでなければならないというのは、「相互作用」しなくてはならないからだ。「相互作用」とは同じルールに従うもの同士のあいだでしか成り立たないので、こういう表現になる。
 何を言っているのか、多分どなたもピンと来ないだろう。みなさんは、自分ひとりが何かするとそれで「現象」が引き起こせると思っていると思う。でも、事実はそうではない。「現象」を引き起こすには、必ず他者が必要だということだ。自分ひとりでは、どんな現象も引き起こせず、従って何の変化も引き起こせないということだ。
 さて、「現象」についてはこれぐらいにして、次は「存在」についてだ。現象に与る「存在」、現象として現れる「存在」は次のような条件を満たしていないと「存在」ではない、つまり全く普通の意味での存在(=A存在)ではないのだ。「存在」ではないのだから、「現象」に与らず、「現象」を引き起こせない。
 A「部分」を持っていて(「部分」で構成されていて)、それゆえ「全体」であり、その「全体」もまたより「大きな全体」の「部分」であること。(部分間のルールのうち、少なくとも一つ以上が同一であることが、部分の集合体を「全体」と呼ぶ前提だ。)
 どうしてこうなるのかは、長い思索の過程そのものを書かなくてはならなくなるので、ここでは省略させていただく。「素粒子論」や「量子力学」をはじめとして、物理学の全体系をくまなく考察すると出てくる結論がこれなのだ。だから、後は、いろんなものをこの条件に当てはめて考察することにしよう。
 ・私たち人間は存在するか? 
 イエス。私たち人間は組織・器官・細胞などなど同一のルールを遵守する「部分」を持った「全体」だ。そして、惑星地球の「万有引力の法則」という同一のルールに、他の生物、他の物質とともに従っているので、地球という全体を構築する部分でもある。従って条件を満たしているので、私たち「人間」は存在する。
 
・素粒子は存在するか? 
 ノー。素粒子は存在しない。素粒子はこれ以上分割できない。従って「部分」を持っていないから、条件を満たしていない。よって素粒子は存在しない。
 ・宇宙という全体は存在するか?
 ・ノー。宇宙という全体は存在しない。宇宙はたくさんの「部分」で構成されてはいるものの、宇宙の端は「事象の地平線」という、他の世界と一切関係性を持たないもので覆われている。そのことはこの宇宙という全体がより大きな全体の部分ではないことを表しており、宇宙は「全体」としては「存在」しない。

 まぁ、単純に言えば、私たちは「存在しないもの」で出来ていて、「存在しないもの」の中で暮らしているというわけだ。「存在」しないとはいえ、素粒子も宇宙という全体も確かに「有る」のだけれども、私たちがたった今存在しているような仕方では存在していないと言うことだ。素粒子が単独で「有る」ときは、波動方程式に従っているのだから、これは「存在」していない。だが素粒子は他者とのあいだにある同一のルールで制限を受けると、「部分」となって「全体」を構成し、その時初めて「存在」し「現象」を引き起こす。そして、宇宙という全体の「有り方」は、(まぁ冗談だけども)シュレディンガー方程式とマックスウェル方程式をたして二で割ったような状態で「有る」ということになる。宇宙というフィールドは、とてもよく出来ているけど、とてもユニークでもある。宇宙という全体は存在していないし、何の現象も引き起こしてはいない。宇宙という全体は他者を持っていないのだから、現象に与るために必要な条件である「同一のルールに従っている他者」がいないのだから、何の現象も起こしていないのである。つまり、この宇宙は全体としては開闢もしていなければ、膨張もしていない。時間も流れていないし、たった一つの現象も起こっていない。そう思っているのは、この宇宙の中に部分として存在している私たちのような知性ある存在だけだ。だから、宇宙に始まりはあるかと言うカント先生の問いに私の理性はこう答えることになる。「始まりはある。ただし始まりがあるのは、宇宙の内部に部分として存在するものだけだ。始まりはない。宇宙は全体としては始まりはない。」 ハハハー。
 さて、理解してほしいことを簡潔な言葉で伝えよう。
 @この宇宙では、他者とのあいだで同一のルールによって制限を受けなければ、「存在」できないし
   「現象」を引き起こせない。
 A同一のルールによって制限を受けたもの同士は、ただそれだけで「全体」の「部分」となる。
   逆に「全体」は同一のルールによって制限されたもの(「部分」と呼ばれる)だけで構築されている。



 「関係性」という自己と他者とのあいだにある「つながり」(お互いに影響を与えることが確実であるというつながり)があって、その「関係性」の中にある「ルール」によって制限を受けたものだけが、「存在」し「現象」に与れる、それがこの宇宙の超メタルールなのだ。「関係性」こそこの宇宙で最も大切なものであり、この宇宙にあるすべてのモノが全く同じ素粒子でできているにもかかわらず、様々な物質、様々な形態、様々な性質を持っている理由、それは「関係性」が異なり、関係性の中にあるルールがそれぞれ微妙に異なっているからなのである。

 ☆この宇宙で「存在」し、「現象」に与(あずか)る(=関わるとか、参加することだ)には「他者」が必要だ。だから生まれてすぐ「天上天下唯我独尊」なんて言ったやからは不届きものということになる。この宇宙では一人では何もできないどころか存在することすらできないのだから、「世界でただひとり自分だけが尊い」なんて言われたら、ぶっ飛ばしたくなるのだ。宇宙にあるものは全て「他者」との「関わり」があって初めて存在し現象に与れる、それがこの宇宙にあるメカニズムなのだということを理解していただきたい。そして、自らが他者と同じ「ルール」によって制限を受けなければならないことも知っておいて欲しい。人間の世界の関係性の中にあるルールは「独善的」で「局所的」あるいは「不平等な」ものが少なくない。だが、この宇宙では、他者とのあいだにある基本的なルールは「物理法則」であって、「物理法則」は「普遍性」「絶対性」を持った「完全に平等なルール」であることを知っておいて欲しい。私たちの世界が、差別的で不平等であって「吐き気を催すような醜いルール」で構築された世界であっても、宇宙という全体は決してそういうフィールドではない。宇宙というフィールドは、最上等最高のルールが完全に機能していて、「完全な法の下の平等」が確保された場所なのだ。
 また、宇宙というフィールドは「部分」を同一のルールで制限して「全体」を作り、その「全体」をまた同一のルールで制限してより大きな「全体」を作り、という連鎖を繰り返して出来上がっている。(その連鎖の進展方向がトップダウンかボトムアップかは、現象によって違いがあるかもしれない。)この連鎖の中にあるルールの中で最も基本的なルールが「物理法則」である。だから、この宇宙の中にあるどんな「部分」と「全体」のあいだにも「物理法則」は必ず存在する。この宇宙が有する膨大な時空の中に生まれた全てのものが遵守しているルール、たった一つの例外もなく完全に完璧に全てのものが遵守しているルール、それが物理法則なのである。鈴木大拙という禅僧は宇宙のことについて「全であり一」という言葉をよく使っていた。それがわかれば悟りなんだそうな。だが、そんなことは単純明快で、宇宙というフィールドではみんながみんな「同一のルール」を守っていることが分かれば良いだけだ。私たちは、同じルールを遵守している全体を、「民族」と呼び「国民」と呼んでいるのである。だから、宇宙もまた同じルールを遵守しているモノだけで出来上がった「全体」であり、同じルールを順守しているものの集まりだからこそ、「一」(ひとつ)にまとまったものなのである。「この宇宙ではみんな同じルールを守っている」という事実一つに気づくことができれば、宇宙が「全であり一」であるとか、「有機体的」だとか「アートマン」と「ブラフマン」だとか、現代物理学以前のよくわからない言葉を使わなくて済むのだ。
 この当たり前の事実ひとつを私が理解したことで、私自身は大きなルールの変更を強いられた。みなさんにとって「たかがモノ」は私にとっては「同じルールを守るモノ」なのである。それ以来、私は私の世界の中には「たかがモノ」がたったのひとつも見当たらなくなり、私の世界からは粗末に扱って良いモノが一切なくなった。全てのものは「私と同じルールを守っているモノ」なのだから、同じルールを守っているモノを粗末に扱って良いはずがない。「みんながみんな同じルールを守っている」という当たり前の事実だが、私のルールは大きく変更を受けたのである。「もったいないから」という理由でモノを大切にする人もいる、「省エネ」や「省資源」を理由にモノを大切にする人もいる、だが私は「私と同じルールを守っているモノ」どうしだからという理由で、大切にしている。そしてこの宇宙のどこを探しても「私と同じルール」を守っていないモノは何一つとしてないのだから、どうやら私は、この先全てのモノを大切にしていかなくてはならないようだ。
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