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 U 宇宙のメカニズムを理解する
 
 5. 光の速度の「謎」を解く
  さて、ここではちょっとおもしろい話をしようと思う。物理学の世界では、名だたる物理学者でも解けない「謎」がいくつかある。それらは「EPSパラドクス」と呼ばれる量子の世界で起こる不可解な現象のこととか、前述した「波の収縮」の問題なのだが、その中にもっと基本的な「光の速度」に関する問題というのがある。光の速度は一般的には「秒速(およそ)30万キロ」として知られているが、この速度には不思議な性質が隠されている。それは、この速度が「絶対速度」であると言うことだ。
 物理法則は全て、「相対性原理」と呼ばれる「法則」であることを保証するような原理を満たしている。言葉を変えれば、「物理法則」と呼ばれるからには、そのルールは必ず「相対性原理」を満たしていなければならず、いわば「相対性原理」は物理学上のルールを制限する「メタ・ルール(ルールそのものを制限するルールで、法律を制限する憲法のようなものだ)」であると言える。だから、すべての物理法則は「相対性原理」を満たしているのだが、では「相対性原理」とは何か? どんなルールなのか? と言うと、言葉で表現すれば「観測者と観測されるものとのあいだでルールが異なってはならない」というルールだ。つまり、自分から見た相手の運動のルールと、相手から見た自分の運動のルールは同じでなくてはならない、という要請なのである。自分の目の前を電車が走るところを考えてみよう。自分から見て、その電車が時速60キロで走っているとする。そうすると、電車に乗っている人から見れば、自分は時速60キロで反対向きに走っていることにもなる。もし、自分も時速60キロの電車に乗って反対方向に走っているとすると、お互いの電車はお互いの速度の合計時速120キロで接近し、すれ違ったら時速120キロで遠ざかっていくことになる。つまり「運動」というものは常に「相対的」なものなので、視点を変えれば速度が変わったりするものなのだが、観測者の視点が変わっても、そのルールは変わってはいけない、というのが「相対性原理」なのだ。まぁ当たり前と言えば当たり前なのだが、すべての物理法則は「相対性原理」を満たさなければならないというこの要請は、実は人間の「純粋理性」が要請したものであって、この要請をする根拠は他のどこにもない。物理法則は、万物のルールなのだから、「観測者の視点」という任意の事情でルールが異なることなんてありえない!と思っていたのは人間の「純粋理性」だけなのだ。他にも「純粋理性」は「物理法則が互いに矛盾することなどあってはならない」という要請も、「物理法則が単独で、他の法則と全く無関係に成立していることなんてあってはならない」という要請もしている。物理学者は、無意識のうちに自らの「純粋理性」をものさしにして、物理学というものを捉えようとしていたのである。「ルール同士の整合性が良く無矛盾であること」と「ルールの全てが関係し合っていて、良く体系化されていること」は、どのようなルールを構築しても「純粋理性」が要請することなのである。私たちの社会でも、「憲法」という「法律」を制限するメタルールと矛盾する「法律」は作ることはできない(???)し、「法律」に矛盾する「条例」は作ることができない(???)のと同じなのだが、ルール同士が関係しあいお互いに無矛盾であることを要請するのは、他ならぬ私たちの中に元から備わっている「純粋理性」なのだ。

 さて、次に有名な物理学者アインシュタイン博士の話をしよう。アインシュタイン博士が特許局の古びた机の前で物理についてあれこれ考えていた頃、当時の物理学界には二つの偉大な理論があった。一つはニュートン博士の「運動の法則」であり、もう一つはマックスウェル博士の「電磁気学の理論」である。そこでアインシュタイン博士の「純粋理性」はこう思った。「こんなに偉大な二つのルールが、お互いに無関係に存在しているなんておかしい!?」と。そこで博士は、この二つの理論を結びつける理論を考え始めた。しかし、博士の「純粋理性」はクリアしなくてはならない条件を博士につきつけた。それは出来上がった理論は、「相対性原理」を満たしていなくてはならないということだった。マックスウェル博士の理論には「光」が登場する。「光」の速度とは、一体何に比べての速度なのか? 普通の物体なら観測者が静止しているか動いているかで、(ルールは変わらないが)速度は変化してしまう。「光」も同じように「観測者の状態」によって速度が変化してしまうものなのか? そこで、ローレンツ博士という人が同じようなことについて考えていたことを知った博士は、彼の理論のあれやこれやを良く良く考えてみることにした。そして、次のような仮定を素直に受容するのであれば、辻褄が合うよ、ということを論文に書いた。それが「運動する物体の電気力学」というタイトルの論文なのだが、それは「光の速度を絶対速度とする」ことと、「どんな慣性系でも物理法則は変わらない」ということを素直に受け入れるということを要請するものだった。「絶対速度」? そんなものは存在しないはずだった。前述の電車の例でもわかるように「速度」は常に相対的なものであって、観測者の状態によって変化するのが当たり前だ。だが、アインシュタイン博士は数学的な正しさの方を(つまりは理性の要求の方を)勇気を持って正しいとしたのだ。(詳しくはウィキペディアでどうぞ)かくして、アインシュタイン博士は一躍時の人となったわけだが、何のことはない博士の中にあった「純粋理性」の要請に博士自身が素直であっただけだ、と私は思っている。他の学者は、ローレンツ博士によって導き出された理論の中に「光の速度が絶対速度である」という要請があったにもかかわらず、感覚的に認められないという理由か、ニュートン博士の「運動の法則」(この法則は「ガリレオの相対性原理」というルールを満たしているのだが、それによると「速度」は全て「相対的」で「絶対速度」というものはありえないことになる。)の偉大な権威を覆す勇気を持てなかったかして、誰もそのことを受け入れることができなかった。自らの理性が導き出した解答を誰も信頼しなかったのである。でも、アインシュタイン博士は「数学的」な辻褄が合っているという「理性的」な要請を正しいとして、私たちの思い込みの方が間違っていると考えたわけだ。
 とは言え、全く常識的に考えると、粒子があって、その進行方向に力をいつまでも加え続けることをすれば、その速度はどんどん速くなってゆくのが当たり前だ。力を加えれば加えるほど「速度」は大きくなってゆくのが当たり前だから、「速度」なんてものに上限があることは普通は考えられない。しかし、どんなに力を加えても粒子が光の速度を越えることはない。そのことから、光の速度はこの世界にある全ての存在が越えることができない速度、「絶対速度」だということだ。
 さて、「光」の速度が「絶対速度」であって、観測者の状態にかかわらず一定だとするとどんなことが起こるであろうか? この話が良く語られるもので、(光の速度に近づくにつれて)運動している物体の時間は遅くなり、運動している物体の長さが縮むというもので、前述を「ウラシマ効果」と言ったり、後述を「ローレンツ収縮」と呼んだりしている。(ちょっと前までは「運動している物体は重くなる」もあったが、今は言わないようだ。)

 しかし、なぜこの宇宙には速度の上限があるのだろうか? 速度など力を加え続ければ無限に速く出来そうなものなのに、なぜそうではないのか? そしてその上限がなぜ光の速度なのか? なぜ私たちは「光」を追い越すことが出来ないのだろうか?
 
 この謎を解く鍵は、遠方の銀河の速度にある。膨張し続けている宇宙では、遠方の銀河ほど速く遠ざかってて、そして最も遠いとされる銀河はやがて、光速を超えて遠ざかってしまうことになる。どこか、おかしい? 私は、今さっき、この宇宙には光の速さを越えることができる存在は無いと言ったばかりなのだが、どうしてこの宇宙に光より速く運動する物体があるのだろうか?
 実は「どんな物体も光よりも速く動くことはできない。」というルールには一つだけ条件がある。その条件とは「相互作用」するもの同士の間でだけ、光より速く動くことは禁じられているというものだ。だから、光より速く遠ざかる物体があっても別にかまわないのだ。なぜなら、光がそれに追いつけないのだから、私たちはそのような物体との間で(光を媒介にしては)相互作用をすることができないからだ。光が物体間を行きかうことが相互作用なのだから、光の方が遅いと物体間を行ったり来たりできるわけがない。つまり、そういうもの同士では(光を媒介にする)影響を全く受けないのだ。影響を受けないということは、壊すとかという「悪影響」も全く与えないということだし、「関係」というものが全くないということだ。だから、そういうもの同士のあいだでならば、光速を超えても良いわけだ。しかしそれはあくまで、「私たちから見て」という条件付きの話で、はるか遠方にある銀河でもその近傍にはたくさんの銀河があるはずで、光が相互作用する範囲である場所から見ればやはり、光速を越えることはないのだが。

 つまりは光は「クーロンの法則」というルールを携えて、相互作用するもの同士の間にその法則をもたらすものであった。もし影響を与える範囲で光速より速く移動する物体があるのであれば、その物体はルールが敷設されないうちにその場所を通過することと同じになる。私たち人間に例えるならば、ルールが何もない地帯を猛スピードで車を走らせるのと同じようなことになる。そのようなものがあれば、それがもたらす結果は容易に想像がつくであろう。そんなものがあれば、宇宙や世界が安定して存続することなど夢のまた夢と言うことになる。

 光速は確かに有限だ。しかし、どんなものもそれに追いつき追い越すことは出来ない。二つ以上の物体間にルールを敷設するものである「光」を追い越すものがあったんでは大変なことになるから、それでこの宇宙では(相互作用するもの同士の間では、あるいは影響を与え合うもの同士の間では)ルールを敷設するものである「光」以上の速さのものがあることを禁止しているのだ。(宇宙には「光」以外にも無限遠方までの到達距離を持った「重力」があるが、この速度も光と同じであろうといわれている。)物質や物体間に「関係性を確保」し、全体のルールである「律」を敷設する光が、ルールを敷設する以前に影響を与えることが確実なものである「無法物体の先走り」を防ぐためのメカニズム、それが「光速度の謎」なのだ。そして、光を捉える機構である「目」を持った生物ならば、間近に起こっている現象のほとんどを、その現象が私たちに直接的な影響を与える以前に、光は「情報」としていつも生物の網膜に先に届いている。だからこそ、生物は危険にも対処できるのだ。

 私が言った通り、宇宙は実に上手くできたフィールドだろ? 光の速度一つとっても、こんなに良くできたメカニズムがある。まさに、私たちの理性によって想像され、期待される通りに宇宙はできていると思わないだろうか? 私は、物理学を学ぶことで、この宇宙というフィールドの中に数多くの知性的理性的な「賢さ」とそれによって構築されたメカニズムの「精巧さ」を発見した。このフィールドを作った方の名を「神」と呼ぶなら、彼は本当に賢い存在だと思う。
 光は絶対速度なので、私たちが追いかけても追いかけても、それはいつも私たちの前を走っている。だから、ルールのないところを私たちが先に走ることはできないので、私たち自身と「関係性を確保」された他者も同時に安全というわけだ。そして、私たちが光を発しながらか反射しながら運動しているとしたら、光は常に運動する私たちの状況を私たちがどこかに到着するよりも先に伝えていることにもなる。逆に私たちはいつも光を通して周りで起こる現象を先取りしていることにもなる。それだからこそ、私の運動を見た誰かも、そして誰かの運動を見た私も予測的に対処できるというわけだ。
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