U 宇宙のメカニズムを理解する
 
 4. 目には見えない、とても大切なもの
  ここでは、当初の目的であるこの宇宙では何故壊れないもので壊れるものが作られているか? という宇宙究極の問題の核心に迫りたいと思う。そのためには、普段の生活の中では、みなさんがほとんど使うことのない能力を引き出してもらわねばならない。その能力とは「純粋理性」と呼ばれる能力で、哲学者カント先生が好んで使った能力だ。とはいえ、これもまた別にむつかしいことはない。ごくごく簡単なことについて考えることができれば、その能力は自ずと発生する。

 そこでまずは、物理学からは離れて、日常生活のことについて考えてもらいたい。考えてもらうことは至極簡単ことだ。

 問題1:交通事故を極力少なくするためにできる最大限有効なことは何か?

 問題2:どんなルールであったにせよ、そのルールは適用範囲の広い方が良いと思うか、狭い方が良いと
      思うか?


 問題3:どんなルールであったにせよ、そのルールは「特権」や「お目こぼし」が多いルールが良いと思うか、
      それとも「特権」など一切なく皆が平等に扱われる例外のないルールの方が良いと思うか?


 最初に「純粋理性」について少し話しておこう。カント先生は「純粋」という言葉を良くお使いになったが、それは「経験とは関わりのない」とか、「経験の中にはない」というような意味で使われている。だから、「純粋理性」とは「経験からは導き出せない理性」ということになる。別の言葉で言えば「極力俯瞰的に、あるいは極力一般的に考えて」、とか「宇宙という全体を考慮に入れて考えて」、と言うことになるかもしれない。そこでだ。問題1の答えは余りに簡単だし純粋理性は使わなくて済むので、考えるまでもないと思う。「みんなが交通ルールを遵守すること」、これが最大限有効なことだ。車や電車など交通機関の全てを自動操縦にすると言うのもあるかもしれない。だが、交通機関を操作するのに少しでも人間が関わるならば、やはり人にはルールを守ってもらわねばならない。問題2と問題3は、限定のないルール一般についての問題だから純粋理性に登場してもらわねばならない。あなたはどう思うだろうか? 私の純粋理性は、ルールの適用範囲の広いルールの方が狭いものよりも良いルールだと答え、「特権」や「お目こぼし」の多いルールよりも、そのようなものが一切ない例外のないルールの方が良いルールであると判断した。
 とは言え、これはあくまで私の「純粋理性」の判断である。みなさんの「純粋理性」が私と同じように判断するかどうかはわからないが、「局所的なルール」「独善的なルール」「不平等なルール」と「普遍的なルール」「公正なルール」「平等なルール」のどちらを良いとするか、ということなので、ゆっくりと考えてもらって構わない。

 さて、この宇宙では何故壊れないもので壊れるものが作られているか? という究極の問いに迫らねばならない。それには、「ルール」というものに着目する必要がある。人間社会では、ルールは「屁」ぐらいの価値しかない。それは、順守されなければ意味や価値がないのがルールではあるが、人間の心の中には「ルールを尊重する」という意志がほとんどないためだ。だが、人間社会にもルールはたくさんある。道徳、義理(「義」とは正しいという意味、「理」とはルールのことだから正しいルールという意味だ)、規則、規約、規定、規律、きまり、掟(おきて)、さだめ、法律、条例、主義、などなど山ほどのルールがある。
 人間にとっては「屁」ほどの価値しかないルールであっても、この宇宙は、間違いなく法治フィールドであって、宇宙にとって最も大切なもの、宇宙の中でもっとも尊重すべきものは「ルール」なのだ!そして、この宇宙では全ての宇宙の存在に「ルール」を順守させるメカニズムを組み込むことで、宇宙の存在が「安定」あるいは「安全」や「安心」するために必要不可欠な状態である「秩序ある状態」を創出している。つまりこの宇宙で「秩序」を創出する方法はただ一つ、それは「(部分であるものが全体の)ルールを遵守すること」でのみ創出されるというわけだ!とはいえ、物理法則をはじめとする自然のなかにあるルールは、不可避的にオートマチックに私たち人間を含めたすべての存在に適用されている。そのメカニズムは前述した通り、「物質」には「力のルールには従う性質」が組み込まれているから、「物質的」(「生物的」という言葉と対比する意味で)であればあるほど、「機械的」に「秩序」は創出できるのだ。

 ルールの全てには「立法趣旨」というものがある。科学者の努力によって自然の中にあるルールの多くは、高い精度で解明されているのだから、それらルールの特徴を検討すれば、自ずと自然の中にあるルールの「立法趣旨」は推測できる。
 
 宇宙(自然)の中にあるルールは、「法則」と呼ばれる適用範囲の広いルールばかりだ。「法則」と呼ばれるルールはルールとしては最上級の、最上等のルールであり、「例外」や「特権」や「お目こぼし」のない完全な平等性を確保したルールのことだ!「法の下の平等」「神の下の平等」などは、人間理性がアプリオリ(純粋という意味に取ってもらって構わない)に求めるルールのあり方の最上級のものだが、人間理性が求める最高のルールでもって構築されたフィールドが、そんな「正しく理にかなったルール」で構築されているフィールドがこの宇宙なのだ!

 そして、ルールの順守がもたらす状態は「秩序ある状態」であり、秩序があるからこそ、そこにあるモノやそこにいるヒトが安心して暮らしていける。だから宇宙は、この宇宙にあるもの全てが「壊れる可能性」があることを承知の上で、「死すべき運命にある」のを承知の上で、可能な限り安定してそして安心して存在できるようにと「秩序」をもたらすメカニズム、つまりこの宇宙にあるすべての存在にルールを完全に遵守するメカニズムを組み込んだのである。これが本当の「神」の愛の正体だ!これが本当の「神」の智慧の正体なのだ!(無神論者の私が声高に叫ぶことではないが....) 


 さて、自然科学を探求する科学者は自然の中に「法則」を見つける。誰もが「特権」や「例外」「お目こぼし」のない最上級のルールである「法則」を見つけるのだ。物理法則はルール同士の矛盾のない良く体系化されたルールの集合だ。宇宙が創造する二つの大きな存在である「天体構造」と「生物構造」のうち、「天体構造」すなわち「星の世界」は無矛盾なルールの体系によって構築されており、しかも全てのルールが最上級のルールである「法則」で構築された世界だ。だからこそ、古代ギリシャ、古代マヤやアステカ、古代エジプトの人たちは星の世界に思いを馳せ、それらが織り成す「秩序」の有様に感銘を受けて、この世界を「コスモス(秩序)」と名づけたのだ。
 そして、アインシュタイン博士の疑問「人がなぜ、宇宙を理解できるのか、それが最大の謎です。」という問いには、私は声を高らかにこう答えたいと思う。それは、私たち人間の内にある「理性」はこの宇宙を構築するのに必要であったルールを作った「理性」と同じものだからだ!、と。

 さて、「理性」とはルール全般に関わる能力のことだ。「理性」は地球上の生物の中では人間が突出して優れているものの、他の生物に「理性」がないわけではない。どの生物にも「学習能力」は備わっている。つまり繰り返される現象や一貫性のある現象には、その生物独自の時間差はあるものの必ず反応する能力は備わっているということだ。人間は突出した理性を有しているので、感覚器官が捉える世界の中から、全ての現象の中から一貫性のあるもの、規則性のあるもの、周期性のあるものなどをすぐに見つけ出して、それらの現象の裏側にあるルールを知ろうとする。宇宙は法治フィールドだから、全ての存在がルールによって組み立てられ、すべての現象がルールに従って起こっているので、何にでもそしてどこにでも「パターン」や「構造」と言った、「ルールによって創出された存在や現象の特徴である規則性や一貫性、循環性や周期性を持ったもの」を発見できる。それはそうなのだが、ルールにはとてもおもしろい特徴がある。

 それは、ルールを感覚器官が直接的に捉えることはできない、つまりルールは目には見えないのだ。
   左にあるのは有名な万有引力の法則だ。このルールに従って私もあなたも地球の表面に引き寄せられている。
  このルールができたのがいつかはわからないが、このルールが機能し始めたのは今から137億年前で、適用範囲はこの宇宙の全空間であり、そしてこの宇宙が続く限り(恐らくは)このルールは未来永劫変わらない(と思う)から全時間でもある。ニュートン博士は、このルールをリンゴが落ちるのに月は落ちてこないという現象から見つけたという。この有名な逸話は決して真実ではないだろうが、この地球上のどこを探しても、私たちの感覚器官が捉えるどの現象を見ても聞いても、残念なことに私たちの感覚器官がこのルールを直接捉えることはない。ルールは探さなくては発見できないのだ!サッカー選手も野球選手もみんなルールに従って行動している。将棋や碁の棋士たちもみんなルールに従って、ゲームを楽しんでいる。しかしながら、これらのゲームを観戦しているからといってゲームのルールが、選手や棋士の頭上にマンガの吹き出しのように見えることはない。ところが、誰に教わらずとも、決してルールブックなんかを読んだりしなくても、これらのゲームのルールは、ただ何度も観戦しているだけで人は自然に理解するようになる。一貫性のあるもの、何度も繰り返して行われているものに私たちの理性はすぐに反応するようだ。そして、どういうわけか、全く自然にそのルールを身につけてしまうのである。理性がオートマチックにルールを把握する確たる証拠が言語だ。普段普通に使う言葉だが、「母国語」以外を使おうとすると、誰でも困難に突き当たる。自分が生まれてからずっと慣れ親しんだ言葉は、誰に教わることもなく簡単に使えるというのに、それ以外の言葉を覚えるのには相当な努力と訓練が必要だ。だが、これはどの国の人にとっても同じ状況であり、母国語以外を理解するのは誰にとっても難解なことだが、それを使用する国の人にとっては難解でもなんでも何でもないごく普通に誰でもができることなのだ。とはいえ、「訓練」(同じことを何度も強制的に繰り返すこと)して身につけることも多々あるのが、人間の世界なのだが。「理性」とは私たちに必要なルールの把握をオートマチックに行う能力である。だが、感覚器官が、ルールを直接把握できないことに変わりはないのだ。
 何度も言う。この宇宙は法治フィールドだ! ただルールを順守することだけが「秩序」をもたらす唯一の方法であるし、宇宙にあるすべての存在はルールに基づいて構築され、ルールに基づいて現象を引き起こしている。それゆえ、この宇宙ではルールを見いだせない存在も、ルールを見いだせない現象も何一つとしてない。だから人間の英知が、この宇宙にあるどの存在、どの現象に向けられても必ずそこにルールを見出す。自然災害は、昔は神のみわざ、神の怒りであった。しかし科学者は、そこにルールを見出した。だから、自然災害は神のみわざではなくなってしまったが、ルールを知ったことによりそれに対処する術を学ぶことができた。全てはルールによって構築された存在と、ルールによって引き起こされた現象が織り成すのがこの宇宙なのだ。だから、ルールを把握できれば対処はできる。どんなものでも扱えるようになる。どんなものとでも共存できるようになる。ルールを正しく理解すれば、臆することなく、ためらうことなく、行動できるようになるのだ。何故なら、ルールに従って現象は起こり変化してゆくのだから、ルールを知っていれば、「予測可能性」が生まれてきて、予測的に行動することができるようになる。次章で詳しく話すつもりでいるが、世の中で起こっていることのほとんどが、ルールに従って起こっているので、誰でもが起こることを事前に予測して対処しているのだ。ただ、それを無意識のうちに行っているので、誰も意識することはないだけだ。そんな有効性のあるのがルールなのだが、私たちの感覚器官が直接把握することは全くできない。(恐らくは)未来永劫生物の感覚器官ではルールを直接は捉えることができないと思う(話が「哲学的」に複雑になるので書かないが、多分原理的に不可能だと思う)。だから、すべての存在と現象を良く観察しなくてはならない。どんなルールが隠れているのかと、「理性」をフルに活用して隠れたルールを見抜かなくてはならないのだ。法治フィールドであるこの宇宙で、もっとも大切なもの、それがルールなのだ! だが、その最も大切なものが直接捉えることができないものであり、目には見えず、聞こえても来ない(神の声として聞こえてきた人も中にはいるようだが)このことが時に大きな不幸を生む。人間とルールの関係についてはまた次章でくどいほどに話さなくてはならないから、これぐらいにしておこう。
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