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 V 番外編
 
 4. 戦争をなくすことについて考える
 
 長崎に行った時のことである。修学旅行生がたくさんいて、平和公園の中で戦争体験者の話を聞いていた。そこで私は、(まぁ私はどこへ行ってもガイドさんが引率する団体の中に紛れてお話をお聞きするのであるが)何となく聞いていない振りをして、実は耳をそばだてて、その老人の話を聞いていたのである。それはもちろん、長崎に原子爆弾が投下され、長崎市が一瞬にして壊滅するという戦争の悲惨さを訴えられたものであった。そこで最後にご老人はこうおっしゃったのである。「みなさん、戦争がどんなに悲惨で残酷なものかがお分かりになったでしょう。人と人とが殺し合って一体何になるのでしょうか。どうかみなさん、そのことをよく考えてこれからも生きて行ってくださいね。」
 先の戦争を経験なされた全ての方、お亡くなりになられた方全てに、非常に失礼なことを申し上げる。私たちに、戦争をしない方法についてもっと言い残しておきたいことはないのであろうか? こうやったら、本当に戦争をなくすことができるのだと私たちに伝えたいことはないのであろうか? もしかしたら、戦争をなくす為にはどうすればよいかについて、一度もお考えになったことがないのではないか? あれほど悲惨な戦争を経験しておいて、ただその経験を語るだけで何の解決策をも誰もお考えにならず、思いつきもしなかったのであろうか? だったら、その経験は一体何であったのか? 

  
 この時、私は後ろの方で修学旅行生にこう叫びたかったのである。「たとえ、国家が命じても、戦争へはいかない決心を今ここでしなさい!」と。私はもうその決心はついている。でも、この決心は別に戦争に限ったことではなく、ソクラテス先生と同じ「不正を行うぐらいならば、あえて不正を被る方が良い。」といううもっと一般的なことに関してまでも、「不正」を行わないことについて決心が付いているから言えることだ。それに人間は暴力の前には非常に弱いから、そんなことを言ったら無知な人々よって「非国民」として罵られ、石を投げつけられるだろうし、家族さえも同じような目に合うのは必定だから、そんな酷なことを子供たちには言えない。
 だからまぁ、それは私だけの決心だ。
 ところで、本文をお読みになって理解してもらえたと思うが、人間には「争い」によって優劣を決め「有利なルール」を勝ち取ろうとする習性がある。私がこのことを訴えても、「習性」の変更には相当時間がかかるであろうから、この先戦争が起こらないとも限らない。そこでだ。日本海のT島やS諸島では領土問題が勃発しているさなかだから、そのことについてみなさんには知っておいてもらいたいことがある。
 国家間の全面的な戦争が始まるとしても、それはまだもう少し先のことであろう(もちろん、そんなことは起こって欲しくないのだが。)だが、少なからずの人に知っておいて欲しいのである。それは「戦争」のメカニズムについてだ。
 T島問題においてもS諸島問題についても、このようなことが起きる原理は同じである。

 @国家間で決められたルールそのものの妥当性、あるいは主張、言い分など、お互いに誰も何も尊重して
  はいない。


 勝てば「官軍」という。国家間でも、国内でも誰もルールの正当性や妥当性などは考えていないのだ。ルールは戦いに勝ったものが決めるという「習性」があるのだから、ルールの正当性など訴えたところで何の意味もない。K国も、C国も「力」をつけたのだ。今まで、「力」をつけた国家はみんな、有利なルールを勝ち取ろうとして他国への侵入を行ったり、圧力というものを掛けてきたのだ。私たちの国も同じことをしたのである。他国に進軍してその領土の支配権を握り、他国民に対して自分の国の言葉の使用を押し付けるなどのルールの押し付けをするのに、正当な理由などあるものか。だから、自分たちが今までやってきたことを、K国もC国も「力」をつけた今、
やっているだけのことだ。
国内であれば、自国民同士であれば、あまりに不当なルールの押し付けに関しては訴え出れば、「裁判所」が個人の主張や言い分の正当性を吟味してくれ、「国法」という「ルール」に従って両者ともに取るべき行為を示してくれる。だが、国家間にはそういうものがないのだから、双方ともに相手の主張など受け入れるわけがない。

 A小競り合いが始まったら、負傷する人もいるだろうし死人が出る。 
 
 30年前に行われたイギリスとアルゼンチンの領土をめぐる紛争「フォークランド紛争」では約1000人(イギリス兵200人、アルゼンチン兵800人)の死者が出た。だから、私たちの国でも戦闘が始まったら、例え局地戦でも、「自衛隊」に所属する人たちの中には死ぬ人もいるかもしれない。だが、死者とはいえ、みんな犬死・無駄死にである。悲しむのは彼らの家族だけで、国葬を執り行いしかるべき場所に英霊として祀られることで、国家は国民をごまかすであろうが、犬死・無駄死にであることに変わりはない。なぜなら、その後に戦勝国に有利な「講和条約」が締結されるからだ。国家が欲しいのはこの「どちらかに有利なルール」だけだ。人が何人死のうが双方の国の権力者が欲すること、それは「力関係」に決着が付いて「ルール」が確定すること、それだけなのだ。

 Bならば、武力での争いは死人が出るから、やめればいい。

 
お互いに欲しいのは「力関係」の決着と、「有利なルール」だけなのだから。その決着は胡錦涛さんと野田佳彦さんが一騎打ちをすることで付けれてもらえばいい。昔の武将は、敵味方の「力」が本当に五分五分の時は、お互いの損失が大きくなり過ぎることを避けるために、「一騎打ち」という方法で決着をつけた。求めるものは勝負の「決着」であって、人が死ぬことではないからだ。昔の武将でもそうしたのだから、今の大将ができないことはないであろう。格闘技はどうも苦手で...と、双方ともにおっしゃるのであれば、麻雀での決着はどうだ。東京都知事の石原さんと野田さん、相手は胡錦涛さんと温家宝さんだ。これなら文句あるまい。
 冗談で、こんなことを書いているのではない。絶対に絶対に、人が傷ついたり死ぬことなんていらないのである。なぜなら、私たちの身に付いた動物としての習性について、良く良く考えていただきたい。元々は、無用な争いと群れの仲間が必要以上に傷つくことを避けるために身に付いた習性なのだ。だから、「力」を行使して「力関係」がはっきりして、順位に応じて「有利なルール」を手にすればそれでいいのである。だから、決着の方法は何でも良い。動物でさえ、仲間を殺したりはしないで「力関係」に決着をつけるのに、なぜ「理性」ある人の「力」の決着には「人の死」が必要なのだ? 良く考えて欲しい。 本当に良く考えて欲しい。
 
 ◎国家の一大事を「命懸けで決するのは当たり前だ」「国民の命よりも国家の方が大事だ。」とおっしゃる人がいたら、そう言う人から順番に戦地へ行ってもらえばいい。ご老体なら、その人の子供や孫に行ってもらえばいい。名も無き兵士が、若き兵士が、未来のある命を掛けるようなことではない。

 さて、私たちの国とK国の間に、そしてC国の間にどのような戦争が起こりどのように決着がつこうが、結局は大した影響はない。それは30年前に争いを起こした今のイギリスも今のアルゼンチンも、紛争以後まるで何事もなかったようにしてきたし、イギリスではオリンピックまで開かれている。1000人の兵士の犠牲があったのにも関わらず、オリンピックの主催国だとさ、たった30年で。紛争がなければ、30年前に死んだ若き兵士たちは、イギリス兵もアルゼンチン兵もまるで何事もなかったように振舞っている人たちと同じように、オリンピックに熱狂したであろうに。(彼らが、人間の持つ馬鹿げた習性のせいで奪われた彼らの未来について、一体どれだけの人が今でも悲しみを感じているであろう。この習性が人にある限り、死んでいった兵士は忘れ去られるばかりである。)フォークランド紛争はイギリスの勝利に終わり、フォークランド諸島はその後イギリス領であるのだが、どうかみなさん馬鹿げていると思ってください。戦争ほどバカバカしいものはないと、心から思ってください。「力関係」の優劣を決め、勝者は弱者より「有利なルール」で生きることを当たり前と思う「習性」は、それが「習性」であるという理由で百歩譲って許してあげるから、せめて「力関係」の優劣を決めることに「人の死」を持ち込まずに、軽度な負傷程度で決着をつける方法ぐらい考えてください。見つけてくださいい。人間は他の「動物」よりも突出した「理性」がある。「理性」があるにもかかわらず「動物」以下の振る舞いをすることを恥じだと思ってください。説得しろというなら、野田さんでも石原さんでも胡錦涛さんでも説得しには行きますが、彼らは大きな「力」の持ち主であって、「有利なルール」の下で生きておられるお方だから、私一人ではむつかしいだろうな。
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