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 V 番外編
 
 1. 「科学主義者」のススメ
  私は生粋の「科学主義者」である。だが、「神秘体験」もたくさんしている。しかし、ソクラテス先生がデルフォイの巫女が自分に下した神託について、自らの足で賢いと思われる人を訪ね歩いて信託が正しいかどうかを確かめたように、私も神秘体験で得たことだからといって鵜呑みにしたことは一度もない。例え神の言葉であっても、自ら検証して納得して受け入れることしか私にはできないのである。
 というわけで、私は、あの超越的感動と細胞一つ一つまで納得させるような圧倒的な確信を与える神秘体験にも流されることなく、科学主義者でいるのには理由があるのだ。それは「科学は平和な学問だから」である。
  私が物理学を探求し始めたきっかけは、某公共放送の「アインシュタインロマン」というドキュメンタリー番組であった。それまで、科学にも物理学にも、それにアインシュタイン博士にさえも何の興味も持っていなかった私が、何故だかわからないが、この番組を見なくてはいけないと思ったのである。今でもそれが何故だかはわからない。当時私はスクーバダイビングのインストラクターをしていた(こんな仕事をしていた人間が今こんなことを書いているのだから、ワイルドだろう!)から、週末はずっと海に行かなければならなかった。だから、日曜日の夜に放送されていたこの番組はいつも録画して見ていたわけだ。第一話を見終わった途端、体がしびれたのを覚えている。今まで、知りたいことなど全くなかった私であるのに、物理学については猛烈に知りたくなったのだ。それから、一年も経たないうちに私の部屋は物理学書(とは言っても、数学がびっちり書かれたものではなく、一般人向けのものがほとんどであったが)が山ほど積まれ、大切なことを書き込んだノートや走り書きのメモなどが部屋中に散乱するほどになった。
 「アインシュタインロマン」という番組の構成は、基本的には「光」の振る舞いの不思議さや「相対性理論」によって発見された世界の常識外れな側面などを紹介するものであったが、伏線として「科学」の持つ「悪」の側面をも照らし出そうとするものであった。批判者はミヒャエル・エンデ、「ネバーエンディングストーリー」の作者だ(今はもうお亡くなりになっている)。彼が、科学批判を繰り広げる対象は辻村ジュサブローさん作の浄瑠璃人形として登場したアインシュタイン博士であった。博士は、原子爆弾が生まれるきっかけとなった有名な公式「質量とエネルギーの等価原理」(E=mc^2)の生みの親である。そしてドイツより先に原子爆弾を製造するために、アメリカ大統領に向けて原子爆弾製造を推進するようにと書簡を送った人でもあるから、科学批判の対象としてはうって付けである。エンデさんの主張を要約すると、@科学敵知識が、人間がそれをどう使うかということを全く考慮に入れないで進んでゆくことの批判。A科学的知識が、限定された国や地域のためだけに用いられることの批判。の2点なのだが、元々「科学」も「技術」も「軍事」に大きく関わって発展したから、この批判は至極妥当である。今なら当たり前に使われているレーダーやGPSも元はと言えば軍事技術だ。だが別にこの手の問題は、科学に限ったことではあるまい。使い方を誤ったら、人を傷つけたり殺したりするものは世界にはごまんとある。薬も麻薬も、毒物も劇物も、車も飛行機も、そして包丁や花瓶でさえもだ。とは言え、科学の進歩は、人の世界を牽引するほどに早いから、普通に生きている人の「知性」や「理性」をほぼ完全に超えてしまっているのは事実で、複雑な取説を読み込むほどの知性を持たないご老人が年金を叩いて買った携帯電話をその日のうちに壊してしまうということも十分にありえるし、買ったはいいがとうとう使うことができなかったパソコンを、ほとんど新品のまま粗大ゴミの日に捨てるということもありうる。うーん、残念だ。実にもったいない。人にはもっと「探究心」というものを身につけて欲しいものだ。
 冗談はさておき、私が物理学を探求し始めた頃からずっと今でも、思い続けていることがある。それは「正しい知識を手に入れるのはほとほと骨が折れる」ということだ。私はそれまで、先生と呼ばれる人たちが学校というところで教えていることは、全部正しいことを教えているのだと何の疑いも持たずにいたから、世界には「正しい知識」が溢れていて、それはきっと「本」に書かれているはずだから、「本」に書かれていることはみんな(あらかたは)正しいことだと思っていた。だから、正しいことを知るには本屋へ足を運べばいい、そう思っていたのである。ところがだ。手当たり次第に本を読んでいるとわかるのだが、科学書であっても時折異なることが書いてある。こうなると、私にはどっちが正しいのか判断がつかない。そして私は、「自分が正しい知識と誤った知識を区別する方法を持っていない」ことに気づいたのである。これは実に驚くべきことであった。先生はみんな正しいと思っていた私にとって、もし二人の先生が異なることを正しいと言ったら、私にはどちらが正しいか判断できないのだから。正しいことを知りたいと思っている私が、正しい知識と誤った知識を区別する方法を知らないなんて、こんなことではこれからの探求を進められないと思った。
 だから私は科学そのものの勉強を一旦中座して、どうしたら正しい知識を手に入れることができるか、どうしたら誤った知識の中から正しい知識だけを取り出すことができるかについて、探求を開始したのである。デカルトさんは、有名な著書「方法序説」の中で、こう言っておられる。「自分にとって明証(直感的に真理であることが疑いえないこと)なると判断した知識」だけを使って真理の探求をしたのだ、と。デカルトさんは偉いからいい。だって、自分自身で「明証なる知識」かどうかを判断できるのだから。しかし、私にこの方法を用いることはできない。直感なんて働かないし、まして基礎となる学力や洞察力、明晰さなどの能力が私にはデカルトさんの鼻くそほどしかない。それで、私は良く良く考えて「科学主義者」になる他はなかったのである。その理由は「科学」(とりわけ自然科学)の知識だけが、世界中の人に開かれており、国家や地域、人種、民族を問わず老いも若きも男でも女でも誰でもが吟味すること(批判と推敲すること)ができ、その上で、正しいとされた知識だからである。つまり、科学的知識だけが、不特定多数の大勢の人の検証という手続きを経ているので、正しいのではあるまいか、と私は考えたわけだ。それで私は科学的知識だけを正しい知識であるとして、探求を開始したのである。とは言え、科学的知識の全ては「推測」に過ぎず、今のところ正しいとされる知識ではある。だから、今の時点で正しいとされる科学的知識が未来において誤りとされる可能性は決してゼロではない。(このへんのところはポパー先生の著作をお読みになると良い。)
 科学は、多くの人に誤解されていて、「ヨイトマケの歌」という恐ろしい程に素晴らしい歌をお作りになったM和A宏さんも科学が大嫌いだそうな。(だが「理性」にはたいそう信頼をおいておられるようだが)「科学科学って、何でもかんでも科学でわかるわけじゃないわよ!」とおっしゃっておられるようだが、それは当たり前のことなのだ。なぜなら、科学は不特定多数の人間が吟味することが可能な知識しか、扱わないのであるから。だから、観音さんが見える人、過去世やらが見える人の知識は扱えないのである。だって、ほとんどの人にはそんなものが見えないのだから。@科学は、それが誰の知識であってもまたどんな知識であっても不特定多数の人間が吟味することを拒絶してはいないし、むしろ歓迎している。A科学的知識の妥当性の検討においては、批判とその論駁という方法を採用しており、不特定多数の人間を「説得」し、不特定多数の人に「納得」してもらわなければ、正しい知識とはならない。この方法ならば「独善的な知識」や「局所的な知識」というものを遠ざけて、人間ならば誰でもが正しいと思える知識の構築が可能であると私は考える。だから、科学敵知識はみんなでそれについて考えたという点で「平和な知識」であり、大勢の人間が信じるのではなく自ら判断したという点で、「信頼のおける知識」なのである。新しい「知識」は元々個人の脳裏に端を発しており、知識が道端に落ちていてそれをみんなで見つけるようなことなど決してありえないものだ。個人の脳裏に想起されたものである限り、そのままでは「私見」や「臆見」に過ぎない。それを「正しい知識」とするためには、他者による吟味が必要であるという科学の方法は「独善的」で「局所的」な知識を生み出す可能性は小さくなる。そして、人が吟味することさえ許さないで絶大な力を有する「神」や「権力者」権威者」の知識だということで、「力」で知識の正しさを押し付けるということもない。
 自然科学の知識は、その利用法はともかく知識そのものは実に平和な知識であるから、世界の誰にでも適用が可能だ。医学が科学を取り入れてからというもの、人々はどれほどその恩恵を受けたことか。経済力の違いによって、世界中の人々が科学によって進歩を続ける高度な医療を受けられないという「知識」の利用法の誤りはあっても、知識そのものは、世界中の多くの人々を病の苦しみから解き放つことができるのだから、知識そのものが悪だということは絶対にないと思う。そういう知識は「科学主義」によって生まれたもので、大勢の人が知識を吟味することで生まれたものだ。
 だから、私は生粋の「科学主義者」である。自分自身が例え神秘体験で得た知識であっても、それを正しいとするには大勢の人の吟味が必要であることを心得ている。大勢の人が私の知識を良く吟味した上で、正しいのではないかと言ってもらえることがあったら、その時初めて私自身も、「そうか、じゃぁ、私も正しいとするか。」と思うのである。その方法を私が採用することにより、私自身は自分自身をも知識の独断から救うことができる、そして私が何事につけて新しいこと正しいことを知ったとしても、それはただ私が知識を見つけ出しただけのことに過ぎず、それを正しいことにしたわけではないのだから、私が知識を発見したりたくさん持っていることの奢りをも諌めてくれるのだ。
 まぁ、とはいえ、「正しい知識」が必要になる人生を送る人の数は、この地球上でほんのわずかで、ほとんどの人にとって必要なのは他者の「オーダー(命令・指示)」であるのだが。
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